高校時代の同級生と会った、沖縄出身で、何故こんなに頭が良いのに

工業高校に来たのかわからないぐらい頭の良い奴だった。

彼と話をしていて、沖縄人にしては、面白いぐらい右翼だった。

阿嘉島の奇跡を聞いた事があるだろうか?今は、阿嘉島に住む者ですら

知らない話である、太平洋戦争の沖縄戦で米軍は沖縄本島の攻略前に周辺の

島の制圧を行った、慶良間列島の中の阿嘉島には、特攻用モーターボートの

震洋の基地が有った、米軍が上陸してきた折、海軍の整備兵(震洋の)28名が

斬り込みを行い全員戦死した、あまりにも悲惨だったので、米軍のクラーク中佐は、

降伏勧告を行ったが、日本陸軍は、無視をして戦闘態勢を維持していた、2か月も

すると食料が尽き、住民、朝鮮人軍属、そして、兵士も少しづつ、米軍に投降して

行った、部隊長の野田少佐は、見れば、射殺しなければいけないので、見られない

日本兵に)様に逃げろと、言ったとの事、他の将校や、下士官達から、甘い人物だと

馬鹿にされたらしい、ある日、米軍のクラーク中佐が野田少佐の停戦の話をしようとの

提案が有り、部下を林に待機させ、海岸でクラーク中佐と話し合いを行ったが、

降伏勧告日本陸軍は、降伏はもってのほかだと拒否をした、クラーク中佐は、それなら

せっかく海岸で、顔を合わせたのだから、昼食を一緒に食べようと提案した、一瞬

カーと怒りがこみ上げた野田少佐だったが、飢餓状態で、林で待機している、部下達の

事を思い、その提案を受け、共に昼食を取る事を了承し、浜辺で日本兵と米兵が共に

昼食を取るという、奇妙な光景があった、日本兵たちは、米軍のパンやポークチップを

腹一杯食べ、海岸を後にしたが、米軍のオズボーン中尉が、通訳と共に、丸腰で野田

少佐と共に日本軍の陣地に同行すると言い出し、その許可を、野田少佐からもらい

同行し、なけなしのパインの缶詰をごちそうになった、オズボーン中尉は後に1967年

から駐日公使になった、結局 降伏勧告を拒否した野田少佐だが、2度目の打合せ時

クラーク中佐から、この奇跡をお互いの神に祈ろうという事で、また、海岸で日本兵

と米兵が、祈りを捧げる光景があった、野田少佐から、「降伏はしないが、攻撃も

しない」との連絡が有り、島民、朝鮮人の投降が続いた、終戦時、軍上層部からの

武装解除の命が有り、野田少佐は、クラーク中佐に降伏した、この島では、島民の

自決など1件も無かった、島民も喜んだ、ただ 後味の悪い事が有った、

先に投降し十分食事を取り、体力の回復していた朝鮮人軍属達に野田少佐含む多数

の将校がリンチに合い負傷した、クラーク中佐は軍上層部に報告し 自分たちは戦勝国

の人間だと、島民にも乱暴狼藉を行う朝鮮人を、日本本土で無く(本人たちは日本本土

への帰還を希望していた)朝鮮半島に送還した。野田少佐は、自分の行いは、人間と

しては、正しかったと思うが、日本帝国軍人としては、裏切り行為で、何の言い訳も

出来ないと、郷里の鹿児島に帰還した後も、家族にもその話をせずに、天寿を全うした

島民や旧部下からの感謝の手紙を読み 奥様は初めてこの事を知ったとの事、本当に

薩摩隼人である、「義を言うな」と無言でとうした。

戦後1980年代には、この阿嘉島の事が、何度か取り上げられた事は有るが、それ以降

沖縄では、島民すら、知らない話となった、TV局が 沖縄の新聞社に取材を申し込んだ

(メッサ左翼新聞 某沖縄新報)が拒否された、きっと 沖縄普天間基地反対の話で、

聞きたくない話なんだろう、以前 沖縄在住の日本赤十字病院の元従軍看護婦の方に

某沖縄新報の女性記者が「戦時中 壕の中で、食事の面などで日本兵に虐待され苦労

されたでしょう」との問いに、従軍看護婦の方は「私たちの壕では、日本の兵隊さん

は私たち看護婦や、ひめゆり部隊の女子高生達に優先して食事を与えてくれました」と

返答した、そうしたら、その女性記者は「集団自殺の命令も出てたでしょう?」と再度

好みの回答を得ようとしたら、従軍看護婦の方は「壕を守備する兵士や、将校達から

絶対に死ぬな、生きろあきらめるなよと励まされ、壕から脱出させてもらった」と

答えた、切れかかった女性記者は「従軍慰安婦も壕の中に居て、日本兵の相手を

させられていたでしょう?」との問いかけに従軍看護婦の方は「まず 壕には民間人

いなかったし、負傷した兵士と私たち看護の者だけだったし、あの戦時時にそんな気

になる兵士がいますか? 少し心理学を勉強されたらどうですか?更に、”従軍”と

つくのは、私たち従軍看護婦と、従軍カメラマンだけです、もう少しお勉強され

インタビューに来られれば、いかがですか?」と返されていた。修学旅行生(青森県

に自称元ひめゆり部隊と言うおばさんが 日本兵がいかに残酷で非道だったとの説明を

していた時、一人の生徒が、家のじーちゃんは、そんな事を言われるために沖縄で戦死

したのかと泣いて叫んだ、そのおばさんは「よく居るのよね歴史を知らない子供が」

薄ら笑いをした時、一人のおばあさんが あなたひめゆり部隊のどの部隊に居たの?

私も元ひめゆり部隊の生き残りですが、あなたの事全く記憶に有りませんが?と

そのおばさんを問い詰めたら、さっと消えて行ったと言う話がある、朝鮮系のプロ市民

が印象操作をしているのだろう 日本全国から20万の兵士が 沖縄を守備する為に派遣

され、数多くの兵士が故郷の家族の事を思いながら戦死していったのだろう。

20万人の兵士が居るのだから、どこにでも馬鹿野郎は、居るだろう、兵士全員が精錬

潔白な方ばかりだとは言わない、しかし数多くの立派な兵士が沖縄守備に命をかけ、

戦死していかれたのだろう。

歴史上、有名人の墓はどうなっているかご存知だろうか?

昔、楠木一族を調べる為、千早赤坂村によく通った、

170号線を走り、河内長野に入り 左折して、千早赤坂方面に向かうのだが

ものすごく渋滞しているし、遠い感覚がした、ところが 大阪夏の陣

後藤又兵衛が戦死した道明寺に行き、石川を越え、すぐ右折をすると、近飛鳥の

地を通り、ワールド牧場を越えればすぐ千早赤坂に着く、何か、マジックにかかって

いるような感覚すらした、その石川の東岸を南に走ると、坪井八幡宮がある、

ここには、源氏三代のお墓が有る。頼信、頼義、義家 いずれも関東や、奥州の乱で

名をはせた源氏の周流(頼朝の祖先)達である。

源頼信、兄に大江山の鬼退治で有名な源頼光が居る、源氏の関東進出の基礎を作った。

源頼家:奥州の前九年の乱で阿部氏を滅ぼした武者。

源義家:源氏のヒーロー 父の頼義と「前九年、後三年」の乱で奥州にて活躍。

こんな有名人が大阪の羽曳野にお墓が有るなんてと思い、お墓を見に行った事が有る。

ところが、まともに墓石が立っているのは、頼義のみで、頼信、義家の墓は、円墳?

平安時代中期の為、あり得ない)の上に有る、義家など墓石すら無い、何か見るも

無残な荒れようであるである、もし他人の既存の円墳に合葬されているとしたら、

何かの封印である、(「平城天皇桓武天皇の長男、後に藤原の薬子の乱で、弟の

嵯峨天皇により、平城京に幽閉され、平城京建設時に干渉した、昔の前方後円墳

前夫部を削った円墳に合葬された」「懿徳天皇吉備真備達と共に藤原仲麻呂

恵美押勝)の乱を勝ち抜き天皇家を守ったが、吉備真備らの死後 奈良西大寺に幽閉

され、ほぼ餓死状態で殺され、近くの前方後円墳(時代が違う、他人の墓)に合葬

された」)、藤原氏による、源氏の台頭に対する、封印の呪いがかけられていると

推測する、近くに行くと、義家公の怒りが感じられる。怖ろしい。

四条畷神社(楠木正行)について、如意輪寺の過去帳

四条畷神社に祀られている人物が、あまりに違うので調査中

和歌山県伊都郡の生地一族(坂上田村麻呂子孫)について 記しますので

こうご期待、

本日、マウザー社製20mm機関砲搭載ゼロ戦について。

そんな馬鹿な ゼロ戦はスイスエリコン社製20mm機関砲では無いか?との

皆さんの(マニア)意見が有るが、現場の指揮官は恐ろしい物で、

ニューギニア戦線で食料、弾薬の不足で苦戦している陸軍が海軍のラバウル

参謀にご相談と言う事で、フィリピンのクラーク基地に有る陸軍の水冷式三式戦

「飛燕」(整備不良でほぼ全機動作不良)のドイツマウザー社製20mm機関砲と

弾薬、食料の交換が有ったらしい、海軍の一式陸攻が、クラークまで飛び、マイザーを

受け取り、ニューギニア戦線に食料、医薬品、弾薬を運んだらしい、アメリカの

B-24リベレータや、B-17は、ゼロ戦の20mm機関砲(エリコン社製)でもなかなか

撃墜する事が出来なかったが、ドイツマウザー社製20mm機関砲は、威力が全く

違った、アメリカ軍の爆撃機をいとも簡単に撃墜出来たらしい、同じくアメリカ軍の

戦闘機も撃墜した、現地の海軍整備兵は、気を良くして、ゼロ戦の機関砲を撃墜した

アメリカ軍の12.7mm機関砲に交換し、沢山の撃墜王を生み出した、しかし、

歴史の本には、一切そんな事が記されていない、マウザー20mmも弾薬が尽き

(エリコン社製20mmとは、弾丸の互換性が無かった)、台南空のトラック移動で

12.7mm機関砲も元に戻され、歴史通りの苦戦となった。

現場の事は、現場にしか解らないし、現場を理解出来る上層部の人間がいかに少ないか

全く現在と同じ、臨機応変と言う事を、上層部の教科書に記してもらいたい。

湊川神社に行ってきた。

凄く立派で、菊水紋がまぶしく輝いていた。

祀られているのは、

  • 楠木 正行:正成の五男、湊川の戦いには参戦してい、               四条畷の戦い(1348年)にて戦死
  • 楠木 正季:太平記等では、正成の弟として描かれているが、実は正成の父(正康)の

  弟の、信貴正玄の息子で、正康が、死んだ後、正康の子供たちの後見として、

  正成達を育てた。(1336年の湊川の戦で戦死) 

  • 菊池 武吉:九州菊池武時の七男、兄武重と新田の陣に居たが、正成に後退を促しに  来たが、自害する正成ら一族を見捨てて行けず、共に自害した(湊川の戦で戦死)
  • 江田 高次:おそらくは一族でなく、同盟者と思われる。(湊川の戦で戦死)
  • 伊藤 義知:おそらくは一族でなく、同盟者と思われる。(湊川の戦で戦死)
  • 箕浦 朝房:おそらくは一族でなく、同盟者と思われる。(湊川の戦で戦死)
  • 岡田 友治:河内の土豪? 同盟者と思われる。(湊川の戦で戦死)
  • 矢尾 正春:矢尾別当顕幸の一族、一応 一族。(湊川の戦で戦死)
  • 和田 正隆:一族で和田正遠の息子か? (正成の従兄弟)(湊川の戦で戦死)
  • 神宮寺 正師:正成の股従兄弟。(湊川の戦で戦死)
  • 橋本 正員:一族。(湊川の戦で戦死)
  • 冨田 正武:正成の股従兄弟。(湊川の戦で戦死)
  • 恵美 正遠:正成の従兄弟
  • 河原 正次:東遠の一族、(羽曳野市原城の城主一族)。
  • 宇佐美 正安:正成の甥。(姉の息子)(湊川の戦で戦死)
  • 三石 行隆:おそらくは一族でなく、同盟者と思われる。(湊川の戦で戦死)
  • 安西 正光:一族の可能性は有るが、不明。(湊川の戦で戦死)
  • 南江 正忠:正成の妻 久子の兄。(湊川の戦で戦死)

江戸時代初期 尼崎藩の領地内に土饅頭があり、藩士が近隣の農民に確認すると、

楠公さん」の墓と言われた、藩主の青木幸利の命で五輪の塔が建てられ供養されてが

後に 水戸光圀による、墓碑が建立された、幕末尾張徳川家徳川慶勝の建白により、

明治元年(1868年)、明治天皇の「忠臣楠木正成を祀れ」との一声で、湊川神社が建立

された。

そもそも、湊川から、六甲山を越え、味方の有馬氏範の領地に入り、同盟軍の能勢氏の

手引きで、大阪内海を船で玉串(東大阪、水運業楠木氏の本拠地)に戻れたであろう

なのに、何故 自害を選んだのか? 京都側に布陣していた新田義貞軍は、早くに

撤退していったのに、まるでその撤退を、援護した様な戦闘ぶりである、明石側に

得能山と言う地名が有り、四国伊予の南朝の得能氏が陣を構えていたが、新田と共に

京に撤退した。だから、撤退する余裕は有ったはずである、戦いの後、正成の首は

晒首された後、南河内の正成の遺族に、足利尊氏の好意で戻されて、観心寺に葬られた

北条幕府軍に赤坂城を囲まれた時、影武者を建てて、脱出し、再度城を奪取した人物

が何故? 戦闘前の御所での作戦会議時、後醍醐天皇を一旦比叡山行幸させ、足利

軍を京都に引き込み兵糧攻めで対応する案を建白したのに、公家の坊門忠清に罵られ

湊川に行くしかなくなったので、先を悲観したのだろうか?結局 後醍醐天皇は、

比叡山に脱出し、吉野へ逃れた、坊門忠清は、平然と付き従ったが、以降、誰からも

相手にされなくなり、吉野で死んだとの事。

12年後 息子の正行も 四条畷で戦死する、(北畠親房の悪意で)この話は

また後日。

 

 

ヒロ君の独り言

古来より日本人は、怨霊や、呪いを恐れてた。

権力者は自身が排除した人物の怨霊、恨みを鎮める為、神社や塚を築き

祀った、例えば 神社と言うのは、鳥居を潜ると、本殿までまっすぐの参道がある

のが正式な神社である(大神神社等)、ところが 物部氏の怨霊を鎮める為、作られた

石上神宮は、参道を進むと突き当りになり、直角に右折すると本殿が有る。確実に

封印されている(再度権力が復活出来ない様)、法隆寺も 通常の門は、両端に柱が

有るのに、法隆寺は、柱と柱の間(真ん中)にも柱が立っている、神や魂が出る事も

入る事も拒まれている、京都の車折神社は、鳥居の下に石が詰まれ入れない、やはり

封印されている、春日大社藤原氏の守護神社とされているが、参道は左にカーブして

参道の入り口から、本殿は見えない、つまり封印されている、(本来誰を封印して

いるのか?)法隆寺は、聖徳太子一族を封印している(蘇我氏が?)とされているが

本当だろうか?思うに 以前法隆寺の起源は、九州太宰府に有り、ヤマトに移築され

たと記したことが有る、その時、その人物をヤマトに招いたのは、天武天皇で、招か

れたのは唐に八年間抑留されていた、倭国王(薩夜麻:サチヨミ)で、天武天皇

皇太子の草壁皇子崩御された時、その人望を恐れた、持統天皇藤原不比等らに

暗殺され、法隆寺に封印されたのでは無いだろうか? また、春日大社は、その薩夜麻

の息子の長屋王(既に 薩夜麻が次期天皇として準備されていたので、”親王”つまり

天皇の息子、皇太子と言う意味)も藤原氏により、一族暗殺され、遺体は生駒山

ばらばらに切り刻まれて捨てたと日本書紀に記されている、その後、遺臣達の反撃、

(きっと藤原氏の関係者が暗殺されたのだろう)や、長屋王自身の怨霊に悩まされた

藤原氏は、怨霊を鎮める為、春日大社を建てたが、怨霊は静まらず、大仏を東大寺

大宰府から移築)に建設し奉納したが、長屋王本人の怨霊は静まらず、大仏を

建てた行基を人柱として、生駒山に生き埋めにし、長屋王一族の遺骨を集め、平群

地に、夫人の吉備内親王(同時に暗殺された)とは別々の御陵を建て、怨霊を鎮めたが

藤原宇合不比等の子ら四兄弟が、同時に亡くなった(天然痘と記されている)。

何故か平群は暗いイメージが有る(ただし 関ケ原で有名な 島左近の城も領地も

平群である)、古来中国では、遺体から、頭部を離して、別に埋葬すると、二度と

この世に蘇られないと言う考えが有る、その例は、高松塚古墳で、三種の神器(鏡、

玉、剣)が揃っていて、墓室の天井には、天皇を示す北極星の星座が描かれていたが、

剣の刀身が無く(朽ち果てたのではない)、北極星も削られ、殯後に葬られたので

舌の骨は有るが、頭がい骨は無い、つまり 蘇られては困る天皇になる資格のある

人物「黄泉の大王」と言われていて、埋葬者の特定がされていない、私は「大津皇子

と思っている、首は、二上山に葬られている、因みに京都の車折神社の封印は、平家に

対してのものである。

 

 

 

ヒロ君の独り言

ツタンカーメンのミイラは、DNA検査をされていた。

その結果、実の父親が分かった、遺伝子検査の結果、アクエンアテン

ツタンカーメンの兄と言われていた)が実の父親で、多神教のエジプトを

1神教に変更し、古い神の像や神殿を破壊した人物(アメンラー「太陽崇拝」を

神とした)、そして 自身の妻(ネフェルテティ)との三女(アンケセナーメン

をも妻としていた、ミイラは、見つかっているので、遺伝子検査で、親子と

判明した、宗教改革は 神道イスラム教に変えた様な物だったので、神官たちの

反発を食らい暗殺されたと思う、正妃(ネフェルテティ)の父親が神官のアイ

ツタンカーメンの次の王)なので、多分暗殺されたと思う、ツタンカーメンは、

年も若く神官達に逆らえず、父の改革を推進できず、旧来の多神教に戻した、

(多分それは、アクエンアテンの死後正妃のネフェルティティが男装し王となり、

旧体制戻したと思う)、ネフェルテティの死後、即位して幼馴染で父の妻だった

アンケセナーメンアクエンアテンとの間に娘が居たともいわれている)と結婚し

仲良く暮らしていたと言われている、(ツタンカーメンの墓の埋葬品の中に椅子が有り

アンケセナーメンツタンカーメンに香油を塗っている姿が描かれている、ただ

その椅子の絵の上部には太陽が描かれている「父の変革を認めていた」)

以前記したように、ツタンカーメンの墓は、義母であり、姑であるネフェルテティの

墓の廊下部に急遽造成されたもので、お棺の上に矢車草の花束がおかれてあった、

他の未盗掘の墓が無いので、風習なのか、本当にアンケセナーメンの想いなのか

分からない、とりあえず アンケセナーメンのミイラでは無いか?というミイラは、

見つかっているが、破損が酷く特定されないらしい。

ミイラと言えば、日本の皇族もミイラなされた事例が有る。

法隆寺の本前にある「藤ノ木古墳」で見つかった遺体がそうで、腹を裂かれ内蔵を

抜かれ体内に紅花を詰め込まれ、衣服の上から、四重に布で巻かれでいた、通常皇族に

近い人物は(豪族でも)殯と言う風習が有り、完全に白骨化させ、埋葬する、

なのに 死後すぐに、埋葬されている(ミイラ処理が表している)、その人物は

敏達天皇の正妃のカシキヤ姫(後の推古天皇)を敏達天皇崩御後、殯宮で、葬送の

儀式をしている最中、次の天皇の位を狙った穴穂部皇子にレイプされかけたが、

三輪君逆(ミワノキミサカフ)に阻止された(三輪君逆は、後に穴穂部皇子の命で

仕返しに物部守屋に暗殺された)、結局 次期天皇聖徳太子の父の用明天皇

決まった、しかし 用明天皇も間もなく崩御され(暗殺か)た、この時 穴穂部皇子

推す物部守屋と泊瀬部皇子(後の祟峻天皇)推す蘇我馬子との戦い時、カシキヤ姫に

馬子が穴穂部皇子の追討の許可を貰い、暗殺し、守屋も討った、また、穴穂部皇子

同調した宅部皇子も討たれた、藤ノ木古墳の被葬者は、成人男性二人との事で、古墳の

製造時期に会っているこの二人が、ミイラ処理され埋葬されたと思う(この古墳は、

きっと違う人用の未使用の古墳だったのだろう。馬子には逆らえない)

男二人 布に包まれてそれも四重巻、俺は嫌だ。

テレビで 農作物の獣害の放送していた。

それで思い出した。

イエローストーンの奇跡と言う話を昔聞いた。

1890年頃? アメリカのイエローストーンで、家畜を襲うと言う事で

最後の狼が狩られた、これで牧畜作業が安全に出来ると、当時の人々は

喜んだ、その後、40年過ぎると、イエローストーン地区が荒廃地化してきた、

森林が無く、河川も細く、乾燥化してきた、鹿が増え、荒野に生える草を鹿が食べ

るので牧畜が出来なくなった、農作業も鹿など獣害が酷くなった、鳥も居なくなり、

小動物も消えた、現地の人々は、悩んだ、ネイティブアメリカンの老人に昔の話を

聞くと、白人は、森の守護者を殺したので、この結果を招いたと言っていた。

そこで人々は、相談をて、 14頭の狼を放した、それから数年、鹿の数が、制御され

森や林が出来、牧草も生え、鳥が帰ってきて、小動物が増えて来た、特にビーバー

が、帰って来て、川筋にダムを造った、その為、池が出来、そこにカワウソが帰って

来た、当然餌となる魚も繁殖し、昔のイエローストーンに戻り始めた。

世界各地で狼は狩られ(家畜の敵と思われ)絶滅してきた、今、世界各地で放牧の

羊の為、草木が限度無く食べられ、砂漠化が進んできている、自然のバランスを

破壊しているのは、人間である、革新的な人々が言う、「狼を放して、もしも人間が

襲われたら誰が責任を取るの」と、日本でも鹿やイノシシが増え、農業被害が出てる、

以前、テレビで、動物愛護組織の人が、「人間が彼らの領域に入ったのが悪い、動物

たちは、生きるために仕方なく、畑を荒らしてるだけ」と、

その方々に、言いたい、貴方達は、何を食べているの? 彼らは言っていた、

「農産物なんか、輸入すればいいのよ」と 今 日本の自給率は、50%も無い

はずである、売ってくれる外国が有ればよいが、世界的に農作物が取れなくなったら

日本は、輸入も出来ず、人口の半分が餓死するしかない、そんな状況なのに、休耕田

の何と多い事か、昔、コメが不作で タイからコメを輸入したことを、若い人は

きっと、知らないのだろう、日本の炊飯器でタイ米を炊くと、見事に不味いし、臭い

それでも、庶民は、タイ米を食べるしかなかった、時が過ぎれば痛さを忘れるの

だろう、一番先に被害を受けるのは、弱者(老人や、身障者)、テレビで、老人が

少なくなれば、介護費取られなくなって、良いんじゃないですか?と言っていた、

もし、自分の身内がそうなったら、どうだろう?

人口が減少しているのに、一戸建ての家を農作地を壊して立てている、一度農作地を

破壊したら、復元にどれだけ時間がかかるか?都会や、田舎では空き家が増え、公営

団地も入居者もまばら、ここ数年の大風被害で、停電になり、タワーマンション

欠陥(生活が出来ない)が露見し、蓄財目当てでタワーマンションを購入していた

中国人が、大量に手放し、価格破壊が出て来ている、マンションも古い物は

空き家だらけ、どうするのだろう? 将来が怖い。

30階や40階で生活していて、買い物一つ上り下り、考えるだけでも嫌だ、

一度、経験をしなければ、きっと分からないだろう。