ヒロ君独り言

幼少時 本家のじーちゃんの家に黒色の甲冑が有った、

見た事もない美しさのある甲冑だった、

大人になって類似の甲冑を調べると、あの甲冑は

甲型鎧、触角型兜 つまりヤマト飛鳥時代の甲冑だった、

何故 その様な甲冑が高知県の室戸にあるのか理解出来ない。

今は、行方不明になったあの甲冑、着用してみたかった(55年程昔)

それ以来、甲冑それも日本の甲冑の美しさに惹かれ歴史を勉強するようになった。

小学生時、母方のじーちやんに連れられ徳島県三好郡に墓参りに帰った時、

平家の落人の子孫の家で源平時代の甲冑を着せてもらった、本では大鎧は、30kg~40kg

とあったが、小学生高学年の私が着ても歩けたからもっと軽かった。瀬戸内海の大三島の神社に有る源平時代の甲冑を持ってみたら 腰が砕けるほど重かった、つまり 実戦用の甲冑と奉納用の甲冑では、素材が違うのだろう、平安、鎌倉、室町時代の合戦で

30~40kgもある甲冑を着用して、山城を攻めたり、何日も合戦したりするのは

物理的に無理だろう、馬も耐えられないのでは、無いだろうか?当時の馬は、モンゴル

原産の済州島の蒙古馬や鹿児島の佐多岬で生息している、ポニーの様な馬だったので

そんな重量には耐えられないと思う、材質が実戦用は革がメインであったろ思う。

源平時の瀬戸内海(屋島や壇ノ浦)の合戦時、そんな重い鉄製の甲冑だったら、

海に落ちた時点で即水死だったと思う、だから革製の軽い甲冑を実戦時着用していたのではないだろうか? 革に漆を塗り糸で編んだのが、実戦用だと思う、戦国時代の武将の甲冑も、儀式用の派手な甲冑と実戦用の甲冑は、異なっていたと思う、ただ 部将達は、活躍をアピールするため、派手な目立つ甲冑を着用し、武将(殿様)は、逆に目立たない甲冑を着用していたと考える(映画、関ケ原石田三成島左近が兜の前立てを外して目立たない様にしていた)、だから 儀式用の甲冑が現存している、有名なところでは、戦死した 明智秀満石田三成真田幸村他 有名な武将たちの甲冑が残っている。