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どの歴史書を見ても 大坂夏の陣の英雄は”真田幸村”になっているが、本当だろうか?
家康の陣の前には、本多忠勝の次男忠朝、小笠原秀政ら徳川の武将達が陣取って
いた、大阪方の先陣は、元小倉城6万石の毛利勝永(山口の毛利とは血縁が無く、
本姓は”森”、秀吉の命で毛利と名乗る、関ケ原の合戦で西軍だったので改易された)
で、上記の本多忠朝、小笠原秀政らを打ち取り、浅野長重、 秋田実季、榊原康勝、
安藤直次、仙石忠政、酒井家次・本多忠純といった部隊を撃破し、更に家康の陣にも
突撃し蹂躙している、幸村はこの毛利軍の後ろにいて、家康が海側に逃げて新しい陣を
作っていたドサクサに家康の陣に突入し家康を再度敗走させた、しかし集まって来た
徳川軍に攻撃され一心寺東側の安井天神で越前松平(結城秀康の息子 忠直の軍)
に打ち取られてしまった。しかし勝永は、それら大阪方の残存部隊を率いて大阪城への
撤退戦を指揮し、大阪城に戻っている、歴史の本では、秀頼を介錯し自らも嫡男の勝家
と共に自害したとあるが、遺体は秀頼はじめ発見されなかった、更に土佐に残して
きた次男は徳川の命で京都二条河原で処刑されている? 2017に平成上皇がパラオを
訪問された時のパラオ大統領は。モリさんで勝永の子孫と聞いたことがある?
大阪城の落城時、数多くの武将が城を逃れ出ている、長岡興秋(細川ガラシャの
次男)、長曾我部盛親、明石全登ら。
また 堺の蒸籠蕎麦で有名な”筑摩”の近所の南宗寺には、
徳川秀忠、家光が何故か訪れている、さらに太平洋戦争で焼失した南宗寺本堂の床下
から、徳川家康の墓が出ている、後藤又兵衛に槍で刺され瀕死の状態で堺に運ばれ
亡くなったと聞いた事がある。