以前、正行の兄の正之を少し書いたが、二番目の兄は、何故か正末(字を間違って

いるのでは無いだろうか?二番目で末とは)やはり 家臣の娘が母か?湊川の戦の折

正成の傍にいて父と共に戦った、楠木軍の戦いは、太平記にも記されている様に

少人数で(確か500人程)長時間戦い、足利直義(尊氏の弟)の軍を苦しめた、

当時の有馬の領主は 南朝側の赤松氏の四男だったので、正成は、自分で歩ける

負傷者を正末に託し、生きて正行の手助けを依頼し、六甲山を越え有馬の赤松氏を

頼り、負傷が癒えたものから順次河内の楠木本拠に帰還し、五男の正行を助けたと

思う。その後正末は後醍醐天皇の皇子を託され 長門の国へ派遣された、ルートは

堺から 河野水軍の河野為清(同じく後醍醐天皇の皇子を託され、土佐の安芸郡

安田の久保屋敷に入り、土佐南朝として戦った)率いる河野水軍に土佐経由で

長門に運ばれたと私は思う。しかしその皇子が間もなく病没してしまい、正末は

さぞ力を落としたと思うが、皇子の遺骨の一部を首から下げて、日本海側を戦い

ながら北上し、丹波の国の日本海側 豊岡?出石?で 源氏の武家に諭され、その

娘と結ばれ その地で暮らしたらしい、正末を祀った神社が数多く有るが、何故か

呼び名が同じなので、叔父の正季(湊川の戦で正成と刺違えて自害した従兄弟、決して

正成の弟ではない、正成の父 正康の弟の信貴正玄”まさはる”の息子)と混同されて

いる(確かに正季の方が有名)、そして 三男は 正澄(後の正儀)、四男は正徳

湊川の戦の折、住吉近辺の守りに付き、その後、一族の女子供を、伊賀の上島家

(後の服部氏で正成の妹の旦那)と三河の国、足助に避難させ、自身は鎌倉の

三浦氏に命懸けの養子(なんせ適地)となった、子孫が、野口雨情、島崎藤村

言われている、五男は正行、六男は正時、七男は正村(四条畷で戦死)後3人は

後日記します。