歴史ものを書くつもりでしたが 話が逸れます。

母は、幼少時 徳島の奥の阿波池田に住んでいました、

戦前、徳島市内の蜂須賀家の姫様にお茶、お花を習い、運転手付きのフォード

で通っていたとの事(叔父や叔母談)当時は運送業をしていて、吉野川の北岸は、全て

客先だったとの事、しかし 戦時中 全てのトラックを供出させられ、他の仕事を

したが上手くいかなかったらしい、母は次女だったが長女が若くした亡くなった

(バナナの食べ過ぎ。戦前では、贅沢品、と母方のばーちゃんが言っていた、つまり

娘に甘いじ~ちゃんが悪い)ので長女の役割をやらされたと愚痴っていた、母方の

ばーちゃんの実家が作り酒屋で料亭もしていたので、そこの手伝いでアルバイト

していたらしい。戦後 じーちゃんは今里にいる義父(じ~ちゃんの実母の2番目の

養子さん)を訪ねて大阪に行き、株を教えてもらい、株師になったらしい、母が

何故姑、小姑のいるややっこしい家に嫁に来たのか、本当に???である、うちの

家は確かに美男美女の家系(私だけ母方のそれも獅子舞系)だったが、普通の

人なら、絶対出て行ってると思う、昔は知らないが、当時の親父はサラリーマン

なのに ガス窯3台、カレーは、寸胴 手羽先の唐揚げは3kg、鯨かつ30枚、キャベツ

炒めはひと玉 味噌汁、寸胴、テールスープ寸胴、目玉焼き20個 それにいつも知

らない人がご飯を食べていた、何度も言うが 親父はサラリーマン、当時一緒に暮

らしていた父方のばーちゃんがクリームシチューを作ってくれ、白いゴボウの様な物

が入ってるなと思って食べていたら鼻血が出だし、母が”お母さん何を入れたの?”

言ったら貰い物の人参 そう朝鮮人参を微塵にしてシチューに入れたとの事、当時

ダンボール箱は無くリンゴ箱の様な物2つが送られてきていた、誰からかは知らない、

それとか 台湾からパイナップルやバナナを餅に突き込んだ物が送られてきて

(イットウ缶)甘い香りで期待したが、当時は電子レンジが無かったので 

網で焼くと焦げて食べられなかった、隣家のおばちゃんがフライパンで焼いてくれて

やっと食べられたが、残りは、全て隣にお持ち帰りを母がお願いしていた。

当然隣は喜んだが、母は迷惑そのものだったみたい、小学生、中学生は大人しい

良い子だったが、高校生になると反抗期か”うっせいババア”と恐ろしい言葉を投げ掛け

ていた、 当時2時間目の休み時間に弁当を食べていたが(昼は食堂)その弁当が

ずっしり重く、お袋張り切りよったなと思って蓋を開けたら、生米、生卵が入って

いた、何の対応も出来ず、空腹に耐えていた、次の日、お袋の前で弁当の中を確認

したら卵焼きと日の丸弁当だったので、安心して2時間目に食べようとしたら、

1cm程のご飯の下は、ナイロン袋に入った生米、そこまで頭を使うか、と頭を抱え

以降反省し、言葉使いには、気を付けた、また、母の財布から1000円ぬいて 友達と

茶店に行って帰って来たらハンガーに紙が貼って有ってお気に入りの服の質札が

貼ってあって、ばーちゃんにお金を借り、引き取りに行った、本当に恐ろしい

母だった。皆さんも経験あるのでは?