前回書きましたが 学生時代中世の城に凝って、南河内、奈良、泉北、大阪市内等を

回りました、皆さんは知らないだろうけど 戦国時代 大阪環状線野田駅、福島駅の

近所に信長も入城した野田城、福島城が有った、また十三の北野高校の道路向かい

の公園も戦国時代の城である。堺の北野田の線路内横に野田城跡の石碑があり、楠木

一族の野田氏の城で(大阪市内の野田城も同族)城近辺のお寺からは、当時の白骨が

出てくるらしい、東大阪の中央環状高麗橋近辺の若江岩田も畠山義継の若江岩田城跡

が有る。信長に攻められた、当然 守口も門真も砦程度ではあるが城跡がある。

生駒の並びの飯森山も立派な山城で麓から見ても石垣が見える、何故か楠木正行

銅像が立っている、また麓 当時大阪内海に突き出た半島の先端にあった三箇城

(現在は地名だけ)、堺の中央大通の大起水産の近所に 楠木一族和田正興が作った

城願寺城(現在は公園)がある。この和田氏の家老が沼間氏で、”村上海賊の娘”に出

てくる沼間氏(信長方)である、和田さん何処に・・・

太平記に出て、楠木正成が最初に籠城した下赤坂城で知らない人は、あっそうで済む

だろうが深い谷の岸壁の上に有る城で、谷が天然の濠で そう簡単に攻められない。

北条幕府は、人海戦術で攻めたのだろう、楠木軍1000、幕府軍50000、

しかし2度目の赤坂城落城は、場所の間違いだと思う、当時大阪市生野区巽は、赤坂

と呼ばれ、城主は平野将監(生野区の隣が平野区)現在その城跡に楠木長安を祖と

するお寺が立っている、城の形が”回”と言う形で、当時の武士の館程度の物で

そこに 万単位の鎌倉幕府軍が来れば即降伏するだろう、場内は100人程度

実際 平野将監は降伏し見せしめで全員斬首された。

これが河内の赤坂城なら、そう簡単に行かない、順次鎌倉幕府軍は、千早の谷に

誘いこまれ 両側からゲリラ戦を仕掛けられ、水も食料も安眠も出来ず最終的に退却

し、鎌倉幕府滅亡のきっかけを作った。しかし、のちの時代に(正成の時代から50年

程後)千早城室町幕府軍畠山軍の攻撃で落城するが、楠木軍を指揮する人材が

居なかったのでは、無いだろうか?

先年 真田丸真田丸の攻防をしていたが、当地は、秀吉の命で寺を集めた寺町で

道路も道幅5m程のものが 天王寺から 大阪城方面に続いていた、その北端に回りを

崖に囲まれた 6つのお寺が有るところがあり、そこのところに空濠を堀り、真田丸

を独立した廓とした、南側の空堀が現在のカラホリ商店街である。北、東、西側の崖は

現在も残っている、明星高校グランド、清水谷高校グランドに見える、環状線玉造駅

から西側15分程で見分出来る。寺町の道路の先に塀と櫓を建て、濠を見にくくし

敵兵を誘い込む、敵兵は落とし穴に気が付くが後ろから押され、濠に落ちて数千人が

犠牲になった、これは真田昌幸上田城の戦いそのままの応用で、昌幸が生きていたら

もっと凄いことになっていただろう。

因みに 真田昌幸と 真田信尹は、双子と言う説がある。