ヒロ君の独り言

幼少期より何故か奈良県に縁があり、天理市の柳本(織田信雄の子孫の1万石の藩)

の叔母のもとにいて、崇神天皇陵、景行天皇陵等、子供心に度肝を抜かれた、

大学時代、父に反抗して、目の前を日本刀の白刃がかすめた瞬間、裸足で奈良の

叔母の家に逃げた、親父の怒りが収まるのに2年かかった。その時は大和三山

耳成山の麓、飛鳥まで自転車ですぐだったので、色々な古墳の墓室(今は無理)に

入って学術研究に励んだ 因みに俺は工学部(単なる趣味とも言える)、

桜井市の倉橋の天王山古墳(方墳)1号墳、3号墳の墓室に入ったが 規模がシャレに

ならないぐらい巨大だった、(多分 崇峻天皇の本当の古墳だと思う)

だいたい 蘇我氏系の古墳は ほぼ 方墳で、例えば 都塚古墳(最近階段型

ピラミッド発掘された)は、蘇我馬子の父の稲目と言われる。その下の石舞台古墳

は、蘇我の馬子と言われている、その他、用明天皇推古天皇、久米皇子(聖徳太子

の弟)、最近発掘された飛鳥の超巨大な方墳(一部では用明天皇陵では?)は、蘇我

蝦夷(野蛮人って意味)か入鹿の方墳では無いだろうか?蘇我系の古墳は明日香から

駆逐され(稲目と馬子以外)、大阪の太子町に移葬されている、しかし 聖徳太子

の古墳は何故か円墳、絶対おかしいと思う。また 平城京の東側にある、平城天皇陵は

前方後円墳の前方部を。平城京設立期、干渉するため取壊され、円墳となっているが

問題はこの平城天皇陵は5世紀に造られたもので、平城天皇桓武天皇の息子なので

西暦800年初めの人物で、時期が合わない、つまり 藤原薬子の乱に加担したため

他人の墓に葬られたと思う。同じ例は 孝謙天皇(女帝)で、恵美押勝藤原仲麻呂

の乱の折、吉備真備らと西大寺を本部として乱を収めたが、晩年藤原氏の反抗で

(当時吉備真備は、死去していた)西大寺に幽閉され、従う者は 吉備真備の妹だけで

病気になっても医者も呼んでもらえず、餓死に近い状況で 誰の墓か分からない

時代が合わない前方後円墳に現在葬られている。

そんな例は、源氏のプリンス 八幡太郎義家の墓も 誰か分からない人物の円墳の

上に葬られている。当然時代が合わない、呪詛かも。

少年時代、飛鳥のカンス塚(日本書紀の通りの埋葬方式、規模なのに)は、巨大な石を

くり抜き、石室を2つ削り出し(益田の岩船石か、この形態の石室の失敗作)、日本

書記通り、斉明天皇と娘の間人皇女が葬られた八角形のピラミッド型で、古墳の前に

孫娘の太田姫皇子の越塚古墳も発掘されている、一山西にある、斉明天皇陵は、本当は

誰の墓だろう? 当然宮内庁は認めない。