ヒロ君の独り言

仕事でシンガポールに行った時

歴史の本で 邪馬台国の本を持って行った。

休憩時間に読んでいると 中国系シンガポール人のレオンが話しかけてきた、

その「ヤマト」って本面白い? ?? いや ヤマタイコクって呼ぶんだよと

答えると、レオンは、無理だよ それヤマトだよ、と言ってた。

他の中国系の人間(全員大学卒のエリート)に確認すると邪馬壹国(ヤマト)と言う

古い漢字で書いても皆「ヤマト」と答えて来た。確かに漢字の中に「豆」と言う

字が入っていて 日本でも豆乳を「とうにゅう」とトウと答える。

つまり ヤマタイでなく、ヤマトと言えるのでは無いだろうか?

この邪馬台国の事が書かれているのは、3世紀の魏志倭人伝だけで、前漢の”東夷伝”でも

楽浪郡の東側は、倭であると書かれている、朝鮮半島の東部は「倭」であり、歴史の

本でも習った 任那日本府が本当にあったのでは無いだろうか? 10世紀に高麗国

時代に書かれた「三国史記」という歴史書に 新羅の王は、3代まで倭人であり、

大臣は 倭のタニハの国から来たと書かれ、紀元前1世紀当たりから、5年ごとに

倭軍が高句麗と戦っていたと書かれ、鴨緑江高句麗の広開土王に3万の倭軍が敗れた

と書かれてあった。(全て漢字の為、韓国人には読めない)謎の5世紀 応神天皇

仁徳天皇らは、倭国の王であり、ヤマトの王では無い、倭国本土の九州には、関西の

ような大古墳が無い、何故なら軍費の為、そんな余裕は無かった、つまり倭国とヤマト

国は別であり、その証拠に白村江の戦いで、倭軍は2ルートで戦っている。一手は

朝鮮半島上陸後 新羅に攻込み、もう一手は、直接白村江に向かい、唐軍と戦い

倭軍が敗れたが、新羅に攻込んだ軍は、百済の人員を連れて、日本に帰り、唐軍と

戦って敗れた倭軍の「首長」は、唐軍の捕虜となり、長安に連れていかれ 8年間

抑留され 許されて、倭に帰国したと、「唐の東夷伝」に記されている。

そもそも 2手に分かれて攻込んだ日本軍の正体は? 百済の移民が大阪、奈良、滋賀

に移住し、現在も地名が残っているのは何故?

思うに、倭軍とヤマト軍が合流して唐に戦いを挑んだのでは無いだろうか?

事実、倭軍の首長を捕虜にしたと唐の歴史書に書かれているので、それは事実と思う。

ヤマト軍の王の名は、天智?天武? 倭軍の首長の名も記載されていたが、ど忘れした

ただ それ以降 朝鮮半島での倭の影響が無くなったのは、事実と思う。