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日本の歴史では、現在の天皇家の祖(アマテラス)と出雲族の祖の(スサノウ)
の2系統が神話として出ている、何故か天皇家の祖のアマテラスの子孫は、天の岩船
に乗って宮崎の高千穂に来て、周囲を収めていた、何故くそ田舎の宮崎??
出雲族とは、奈良県大三輪山の西側(長谷寺側)の地名が出雲という。
また、その近辺は、相撲の発祥地でこの出雲地区の代表が(野見宿禰)、対戦
相手は、當麻寺近辺に住む(当麻蹴速)が垂仁天皇の命で紀元前23年に対戦した。
この野見宿禰が勝利し、古墳の人柱を人間の代わりに埴輪にした人物で、奈良市の
蓬莱地区を領地にいただき(土師:ハセ)と言う名をもらった、各地にあるこの
地名は、皆同じ壺や埴輪を作成する職業軍団である、また、この蓬莱地区に住んだ
この出雲族は別名鴨族とも言われ、大国主命(オオナムチ)の子のアジスキタカヒコネ
を祖とし、奈良県の葛城山の麓で暮らしていた、オオナムチとスサノウとの関連は
スサノウの娘のスセリ姫を嫁として島根県の日御碕付近を領土としてもらい
タケミナカタ(諏訪神社に祭られている:何故かは後日のお楽しみ)をもうけている
何故島根県?と言われるが 当時のスサノウの軍が各地に軍(息子達)を派遣して
いて、山陰には、五男の「大歳命」が派遣された。日本地図で奈良県から神戸、姫路に
かけて「大歳神社」が、存在していて、姫路近辺から山陰方面に大歳神社が続いて
いる。つまり山陰方面征討軍だと思う、オオナムチは、大国様とも言われ因幡の白兎
等の神話に出てくる、島根県地域の王だったのではないだろうか?、その関係で、政略
結婚として、スセリ姫が嫁いだのではないだろうか、山陰方面の王であったオオナ
ムチは、山口県地域にも勢力を広げ、北九州の宗像一族と平和条約を結び、その結果
宗像3女神の一人タギリ姫を嫁として(他は、タギツ姫、市来姫)、アジスキタカ
そのころ九州では、宮崎を中心とした(球磨川流域に(中国の)春秋戦国時代に
滅ぼされた「楚」国の遺臣や王族が地域の部族と融合し「熊襲」:狗奴国を成立
させ、北九州地域の奴国を含む連合国(山門:ヤマト)と戦い、最終的にヤマトは、
大分県から 四国に逃れ、徳島県でヤマト国を成立させていた(狗奴国との戦いは、
大分県や愛媛県沿岸で続いていた)、因みに狗奴国の王の名は、卑弥呼の時代
「クコチヒコ」:菊池彦、その狗奴国は、別名:倭国と言っていた。その
狗奴国が九州を統一し朝鮮半島に進出し任那(加羅)を宿営地とし、朝鮮半島南部を
支配していた、前漢の「東夷伝」に記載され、楽浪郡の東側は倭国であると記されて
いた、その倭国軍が中国地方に侵攻してきて山陰で戦闘が行われ、タケミナカタは、
倭国軍のタケミカズキ軍に敗れ、日本海側を戦闘しながら新潟に逃げ 最終的に
諏訪方面に定住したと思う。スセリ姫は、三刀屋という所に幽閉され、オオナムチ、
事代主は戦死、タギリ姫は、宗像の娘の為、下照姫と共に、監視されていたが、
長男のアジスキタカヒコネは、大歳と共に人質として、大和(奈良県巻向)に行って
いた為助かり、葛城山の麓で島根出雲族及び、オオナムチ軍の遺臣達と過ごし、
地域の人間と交じり、鴨族を成立させたと思う。中国からの亡命国名は「呉」「越」「楚」で秦に滅ぼされる前に日本に亡命し、「呉」は、広島県「クレ:呉」
「越」は、日本海側「越前、越中、越後」に移住し暮らしていたと思う。
当時の中国の首都(長安)から 魏志倭人伝に期されている各国の 距離は一里を
750m(当時の中国の単位)で換算すると、驚くほどぴったりと合う。
因みに上記の長安からの距離を日本に換算すると 徳島県にあたる。
徳島県の上山町には伝卑弥呼の墓もある。大作になるので、この後は、次項とする。