ヒロ君の独り言

補説

ヤマト国が奈良のスサノウ王朝の巻向連合と合体したと

書いたが、やはり反対勢力はあった、登美ナガスネヒコ、アビヒコ兄弟である。

彼らは、ヤマト軍を東大阪生駒山の麓の日下で迎え撃ち ヤマト軍は

盾を海岸縁に並べて防戦(現在の盾津)したが、敗れた、当時大阪平野は、

上町台地が海に突き出た半島であり、大阪市東大阪の地は、内海であった、

従って、奈良盆地も中心部は内海で大阪側から船で行き来出来ていた、そこでの戦い

で、ナガスネヒコ軍は、物部連合軍に裏切られ、奈良から一族を連れて逃げた、

ナガスネヒコは、日本海側、アビヒコ軍は太平洋側を追撃を排除しつつ、東北に

至り、軍を合流させたところが「会津」と言われている。

このナガスネヒコ軍にヤマトで藤原氏に排斥された物部氏が合流し、後の

奥州阿部一族藤原氏になっていく。

藤原氏に排斥されたのは、平群氏、葛城氏、佐伯氏(讃岐に逃れ佐伯水軍を設立

し、中国と貿易を行っていた、空海は、この佐伯氏の子孫)、越智氏(伊予に逃れ

風土記に書かれている、百済水軍が日本に攻めてきた折、瀬戸内海で越智真澄

迎撃され(越智水軍)最終的には、神戸沖で壊滅させられたとの記録が有る。

その他 忌部氏(阿波や、出雲に逃げた)、大伴氏は既に勢力が無くなっていた。