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湊川神社に行ってきた。
凄く立派で、菊水紋がまぶしく輝いていた。
祀られているのは、
- 楠木 正季:太平記等では、正成の弟として描かれているが、実は正成の父(正康)の
弟の、信貴正玄の息子で、正康が、死んだ後、正康の子供たちの後見として、
正成達を育てた。(1336年の湊川の戦で戦死)
- 菊池 武吉:九州菊池武時の七男、兄武重と新田の陣に居たが、正成に後退を促しに 来たが、自害する正成ら一族を見捨てて行けず、共に自害した(湊川の戦で戦死)
- 江田 高次:おそらくは一族でなく、同盟者と思われる。(湊川の戦で戦死)
- 伊藤 義知:おそらくは一族でなく、同盟者と思われる。(湊川の戦で戦死)
- 箕浦 朝房:おそらくは一族でなく、同盟者と思われる。(湊川の戦で戦死)
- 岡田 友治:河内の土豪? 同盟者と思われる。(湊川の戦で戦死)
- 矢尾 正春:矢尾別当顕幸の一族、一応 一族。(湊川の戦で戦死)
- 和田 正隆:一族で和田正遠の息子か? (正成の従兄弟)(湊川の戦で戦死)
- 神宮寺 正師:正成の股従兄弟。(湊川の戦で戦死)
- 橋本 正員:一族。(湊川の戦で戦死)
- 冨田 正武:正成の股従兄弟。(湊川の戦で戦死)
- 恵美 正遠:正成の従兄弟
- 河原 正次:東遠の一族、(羽曳野市河原城の城主一族)。
- 宇佐美 正安:正成の甥。(姉の息子)(湊川の戦で戦死)
- 三石 行隆:おそらくは一族でなく、同盟者と思われる。(湊川の戦で戦死)
- 安西 正光:一族の可能性は有るが、不明。(湊川の戦で戦死)
- 南江 正忠:正成の妻 久子の兄。(湊川の戦で戦死)
江戸時代初期 尼崎藩の領地内に土饅頭があり、藩士が近隣の農民に確認すると、
「楠公さん」の墓と言われた、藩主の青木幸利の命で五輪の塔が建てられ供養されてが
後に 水戸光圀による、墓碑が建立された、幕末尾張徳川家の徳川慶勝の建白により、
明治元年(1868年)、明治天皇の「忠臣楠木正成を祀れ」との一声で、湊川神社が建立
された。
そもそも、湊川から、六甲山を越え、味方の有馬氏範の領地に入り、同盟軍の能勢氏の
手引きで、大阪内海を船で玉串(東大阪、水運業楠木氏の本拠地)に戻れたであろう
なのに、何故 自害を選んだのか? 京都側に布陣していた新田義貞軍は、早くに
撤退していったのに、まるでその撤退を、援護した様な戦闘ぶりである、明石側に
得能山と言う地名が有り、四国伊予の南朝の得能氏が陣を構えていたが、新田と共に
京に撤退した。だから、撤退する余裕は有ったはずである、戦いの後、正成の首は
晒首された後、南河内の正成の遺族に、足利尊氏の好意で戻されて、観心寺に葬られた
北条幕府軍に赤坂城を囲まれた時、影武者を建てて、脱出し、再度城を奪取した人物
が何故? 戦闘前の御所での作戦会議時、後醍醐天皇を一旦比叡山に行幸させ、足利
軍を京都に引き込み兵糧攻めで対応する案を建白したのに、公家の坊門忠清に罵られ
湊川に行くしかなくなったので、先を悲観したのだろうか?結局 後醍醐天皇は、
比叡山に脱出し、吉野へ逃れた、坊門忠清は、平然と付き従ったが、以降、誰からも
相手にされなくなり、吉野で死んだとの事。
12年後 息子の正行も 四条畷で戦死する、(北畠親房の悪意で)この話は
また後日。