今回 女性天皇を調べていましたが、

男性も風土記やらで、既に天皇であった方もいらしたと言う事を

記します。

1、神功皇后史書によると、第15代 天皇と記されている。(前回記しました)

2、飯豊青皇女履中天皇の皇女と言う説と、履中天皇の皇子の娘(王女)と言う

  2つの説がある、後に記します。

3、推古天皇:第33代天皇

4、皇極(斉明)天皇:第35,37代天皇。(天智、天武天皇の母)

5、持統天皇天武天皇皇后(天智天皇の皇女)第41代天皇

6、元明天皇天智天皇の皇女で天武、持統天皇の皇子の草壁皇子の皇后、

  第43代天皇

7、元正天皇元明天皇草壁皇子の皇女、第44代天皇

8、孝謙(懿徳)天皇:第45代聖武天皇の皇女、母は皇族でなく藤原光明皇后

  第45,47代天皇恵美押勝の乱吉備真備等と鎮圧したが、後に藤原氏により

  奈良西大寺で幽閉させられ、はぼ殺された、天武天皇系最後の天皇

9、明生天皇:第108代 後水尾天皇皇女、第109代天皇(1629年即位)。

10、後桜町天皇:第116代 桜町天皇皇女、第117代天皇(1762年即位)。

NO,1,2の神功皇后飯豊天皇以外は歴史通り、

NO,2の飯豊天皇は、少しややっこしい、同名の人物が二人いる、

一人目は、青海郎女(履中天皇皇女)、二人目は、忍海郎女(履中天皇の皇子市辺

押磐皇子の皇女)、二人は叔母と姪の関係である、もともと、青海も忍野も葛城山

麓、現在の御所市の事で、更に二人とも「飯豊皇女」と呼ばれている。

因みに「いいとよとは、ふくろうを表す言葉」である。

忍野郎女の父(市辺押磐皇子)は、第20代の安康天皇から、譲位され、「市辺天皇」と

播磨風土記に記されているが、天皇家系図では、天皇とされていない。

ある日、従兄弟の小泊瀬皇子(後の雄略天皇)と滋賀県蒲生郡日野町に狩に行き、

舎人の佐伯部仲子と共に、弓で射殺され、二人まとめて、穴に放り込まれてしまった。

市辺皇子の皇子達は播磨に逃れ身分を隠したが、皇女の忍海郎女は、叔母の青海郎女の

元に逃げ込み匿われた(青郎女と市辺皇子は兄弟)、雄略天皇が「倭王:武」とすれば

(謎の5世紀 倭の五王:賛、珍、斎、興、武)、宋書に477年倭王「武」から使いが

あり、兄が崩御したので、自分が即位したと言ってきている、そして、古事記では、

489年に崩御されたと記されている。約12年、忍野郎女は叔母の元で、隠遁生活を

送っていた事になる、その間、叔母は当時の寿命からすると、亡くなっていたかも

知れない、だから 叔母の遺領をそのまま引き継いだのだと思う。中国の宋の後の

王朝の『南斉書』・『梁書』においても、それぞれ南斉・梁の建国時(479年502年

に武が任官されたことが記されている、雄略天皇崩御の年が、502年以降なら、隠遁

生活は25年に及ぶ事も考えられる、雄略天皇が皇太子の白髪皇子(後の22代清寧天皇

に譲位したが、病弱で、同じく雄略天皇の皇子の星川皇子の反乱もあり、大和朝廷

豪族達は、飯豊忍野郎女に目を付け即位させたと考えられる、扶桑略記には、飯豊天皇

第24代天皇と記され、他の史書にも「清貞天皇(せいていてんのう)」諡号まであり、

天皇の扱いとなっている。

明治時代から昭和20年までには「歴代天皇の代数には含めないが、天皇の尊号を贈り

奉る」としていた。現在も宮内庁では「履中天皇々孫女 飯豊天皇」と称している。

これは 不即位天皇としての扱いである。

政務期間は、数か月で、一年後に45歳で崩御された事になっているが、第22代清寧天皇

第23代 顕宗天皇、第24代 仁賢天皇が、実在か否か問題が有り、兄弟である、仁賢天皇

(播磨に逃げ姿をくらませた)の子の、手白香皇女(後の継体天皇皇后)と実在が

疑われている武烈天皇の二人の従兄弟達も連れて、叔母である飯豊青郎女の元に

逃げ、数年政務を執り、姪の手白香皇女を嫁がす事により、継体天皇に権力を譲った

のでは、無いだろうか?

武烈天皇がいなかった理由として 名が仁徳天皇の「オオササギ」と雄略天皇

「オハツセワカタケル」を合した、「オハツセワカササギ尊」と作為が見られる。