ヒロ君の独り言

長い間のご無沙汰です。

YU-CYUBUで 李承晩TVと言う動画を見ました。

韓国の李承晩元大統領の事を話すのではなく、韓国の大学の教授達が

歴史の真実を語っています。

例えば、徴用工問題、 全員 自ら希望して日本に渡った応募工で、日本人並みの

給料をもらい国に送金していた、ただ 1945年の7月 8月の給料が支払われて

いなかったので、日本政府は1965年の国交正常化の折、工員の未払いの給料を

韓国政府が責任を以って 工員に支払うという事で、3億ドルを支払った。

パクチョンヒ大統領は、後日工員達に 未払い分の給料を、支払った、

だから、日本に賠償請求するいわれは一切無いと韓国人 大学教授は、語っている。

因みに 釜山にある 徴用工博物館にある、無理やり徴用され 炭鉱でガリガリ

痩せている工員たちの写真が有るが、実は、旭川の炭鉱で拉致監禁され無理やり

働かされていた、日本人炭鉱夫達の写真であり、当時に警察により救出された時の

物で、右から二番目の あばら骨の浮いた、炭鉱夫が現在の 徴用工像のモデルである

つまり、日本人の像を飾って 世界中に嘘を広めている韓国人、

今回の 日本政府の制裁により、いままで押さえつけられていた 正常な教育者達の

反乱が始まっている、また 韓国中に有る 日本帝国が韓国内の風水を制御する為に

打ち込んでと言われている、鉄杭だが、儒教の国なのに何が風水だとその先生は話して

いた、時代背景も一切調査せず 多分日本軍がやったのだろうと言う事で、最近の

船の固定用の川べりの鉄杭も あの憎い日帝がやったに違いないという事で 撤去

されたとの事、韓国人は嘘に嘘を重ねて生きている民族なので、日本に対しては

種族戦争を仕掛けているらしい、朴槿恵元大統領もその 民族の一人の嘘から

始まったロウソク集会で弾劾されたとの事、セウォール号事件の保証も終っている

のに、いまだに テント村が有り、遺族でも何でもない人々が、生活している。

遺族に補償金を払うなら、俺たちにもよこせとの理論、関わってはいけない。

興味がある方は 李承晩TVをぜひおすすめします。

ヒロ君の独り言

久々 記します。

倉山満著書「織田信長」を読んだ。

今までの信長は、スーパーマン、超人として描かれてれているが、

この作者は 人間「信長」を書いている。

今までの、信長は部下に厳しく、お金を惜しみ、残酷な面ばかりを描かれている。

誰がその様に描いたのか? もちろん 豊臣秀吉である。

信長公記太閤記等である。

比叡山延暦寺の焼き討ちも 焼かれた跡が無い、有るのは 信長時代から

100年近く前の 細川政元による、延暦寺の焼き討ちの跡のみであるある。

浅井、朝倉氏を匿った延暦寺と信長軍の戦いは確かにあったが、焼き討ちは、

あくまでも伝説である。更に この本によると、信長は、現代の上司にしたい

最高の指導者であったと記されている、まず、部下へのノルマが緩い(太閤記では

真逆)、適材適所に適した人物を配置し、殺人を好まず、敵と戦う時は

敵の数倍の人数で戦に臨んだ、桶狭間今川義元が引き連れて来た軍勢は、

精々1万人程、織田軍も 信長公記に記されている3000人で無く、同数の軍で

戦い、今川軍の内部反乱にて辛うじて勝利した、この時以降、信長は「桶狭間

の様な無様な戦は二度としない」と近親や、前田利家に語っている。

おねに対する、秀吉の浮気に対する慰めの手紙や、側室や正室に対する態度も

物語に描かれている高圧な態度ではない、正室には子供が出来なかったが、

側室の「生駒芳野」との間に、信忠、徳姫、信雄をもうけている。

この生駒氏は、奈良の生駒地域に居た豪族で、筒井氏、興福寺、鷹山氏に追われ

尾張に亡命してきた諜報を得意とする一族で、その諜報員の一人が秀吉である。

この 芳野の推挙で秀吉は信長に仕えているのだが、後年 都合が悪いので

蜂須賀小六や川並衆を物語に出しているが、それらの元は生駒氏であった。

生駒氏への秀吉の態度は、竹中半兵衛亡き後の竹中氏への態度とほぼ同じ

である。本能寺の変の秀吉の大返しも物語(太閤記)の日数では姫路にもたどり

着けない、更に準備を含め、一月前には 本能寺の変を知っていて、準備をし

石田三成小西行長、堺衆の援助の元 船で大阪まで戻って来たのが、ほぼ真実

らしい、自身が天下を取った為、信長の残虐性を押し出したのだろう。

秀吉、光秀、家康 それぞれにとって信長は目の上の瘤で、排除したかったのであろう。来年の 大河ドラマが楽しみであるが、佐々木蔵之介の秀吉は・・・

どれだけ真実の信長を描けるか? この倉山満氏の描く信長は、カリスマだけで

人に嫌われ残虐な人間性に(そんな人間が何故天下人になれるのか)疑問だった。

それを解消してくれた。

 

ヒロ君の独り言

友人から、拙い私の独り言を楽しみに見ておられる 僧侶の方がおられると聞き、常に

「般若心経」の(偏らない心)の精神を貫いている事への 成果だと自己満足して

居ります。

今回は方墳について。

字の如く 四角い古墳の事で、奈良では蘇我氏系の独特の古墳である。

石舞台古墳:伝蘇我馬子・都塚古墳(ピラミッド型と発掘調査で判明):伝蘇我稲目

何故か明日香から太子町に改葬された推古天皇(明日香では息子の竹田皇子と植山

古墳に埋葬されていた。)・用明天皇来目皇子聖徳太子弟)この太子町には。

何故か 伝蘇我蝦夷。伝蘇我倉山田石川麻呂の古墳もある。

祟峻天皇蘇我馬子に暗殺されたとの言い伝え有り)御陵は、奈良県桜井市にあるが

現在の天皇陵は間違いで(単なる丘)実際は倉橋の天王山古墳(1,2,3号墳 それぞれ

方墳)1,3号墳には、学術研究の為、入ったことがあるが、1号墳には、立派な家型石棺

があり、ものすごく広い、2号墳は入り口が狭く入れなかった、3号墳は、粘土槨に四角

い型が残っていて、高貴な方の棺桶(絹を漆で何重にも重ねて箱状にした漆棺)が

安置されていたと思う、驚くほど広かった、このどれかが天皇陵と思う。また

祟峻天皇蘇我系、しかし 蘇我系の聖徳太子は何故か円墳、

太子町の 推古天皇の南側に 二子塚古墳が有る、双方墳で、一辺25mの方墳が二つ

並んでいる、横穴式の石室の大きさ、構造も全く同じで同時期に造成された物で

7世紀中旬から 7世紀後半に作られ、内部の石棺も同型でかまぼこ型まで同じ、

江戸時代は、北側の推古天皇(竹田皇子との合葬墳)とも推定されていた。

気になるのは、大化の改新で暗殺された蘇我蝦夷、入鹿の墓ではないかと思っている。

藤原氏は、本来の天皇家である蘇我氏が余程邪魔だったのか、蘇我氏系列の古墳を

改葬し、明日香の地から、排除している、日本書紀古事記も書き換え、都合の良い

歴史にしている、何せ 朝鮮半島には帰れない(藤原氏百済遺臣)、しかし、邪馬

台国系の天智天皇系を操り、現在に至るからである。(光仁天皇桓武天皇等)

ヒロ君の独り言

東大寺や、興福寺西大寺等、各寺の仏像の中に、仏様を守護する四天王像や

十二神将像が有る、それぞれ見事な甲冑を着ているが、当然中国の鎧である、

ただ どの時代なのか? 殷時代、周時代、春秋戦国時代の甲冑は、秦時代の

兵馬俑等で、表されている、皮をなめし、短冊上に革ひもで編んだ佳甲という種類で

動き易い、同様に漢、晋、後漢三国志の時代、等もほぼ同じ形態の甲冑だったと

考えられる、隋時代や、唐時代に「明光鎧」という物が確立されてきた、これが

十二神将らが、着用している甲冑であると考えられる、材質は、皮と鉄で、お腹部分と

胸部分が別になっている、しかも大変美しい、それまでの甲冑は、実戦専用の甲冑で

見栄えは無い、しかも この様な甲冑が着れたのは、武将クラスの身分の高い人たちで

一般の兵は、厚手の服と盾ぐらいの防御手段であった、宋時代には、「護心鏡」と

言われる楕円形の円板(金属製)を腹と背中に取付けたものが出て来た、その後の

金帝国も宋時代と同じだが、元時代になると綿鎧とも関包衣とも言われる騎馬民族

独特の、服の裏側に革や鉄の短冊状の物を縫い付けた甲冑が出て来た、なんせモンゴルの戦いは、冬季のマイナス20度近い気温の中での戦いがメインであったので、防寒を

兼ねて着用していた、但し、暑さに弱い、元寇の敗因の一つでもある。

同様の綿鎧を着用していた高麗軍も、日本の暑気による疫病の発生で自滅していった。

明時代は、宋時代と同じ甲冑だったが、清時代は、やはり北方騎馬民族だったので

モンゴルと同様の綿鎧であった、朝鮮半島高句麗騎馬民族だったので、彼らの

古墳を発掘して、出て来たのは首も守れる、何の面白みも無い、佳甲(革製)だった、

以前 NHKの韓流ドラマで「広開土王」をモデルにしたもので、ヨン様が着用していた

アニメに出てくる「聖闘士セイヤ」のメッサ美しい甲冑等、当時は、ナイナイ、夢を

見るのもいい加減にしろと言いたい、因みに、甲冑を着た戦士たちは、大変臭い、特に

モンゴル兵や、西洋の騎士など、着たままなので 大変 吐きそうなほど臭かったら

しい、見場の美しさに騙されては、イケない。

ヒロ君の独り言

四条畷の合戦、楠木正行四条畷神社について

四条畷の合戦背景

1338年 2度目の奥州からの遠征(1度目は1335年)を吉野南朝(父 北畠親房

からの要請された(命令)北畠顕家が、足利軍を美濃の国青木ヶ原関ケ原)の合戦で

打ち破ったが 600kmに渡る遠征距離に食料物資、人員の疲労により、第1次遠征時

近江の琵琶湖を渡り、楠木正成共々京都で足利尊氏軍を打ち破り九州に追いやったが

今回は、上記の通り、物資、疲労により(足利軍が、敗残兵をかき集めて近江で陣を

敷いていた)伊勢方面から、吉野に進んだ、その折、父の北畠親房や、他の公卿ら

から、苦情を言われ、河内(楠木領地内)で、兵馬の補給、物資の補給疲労回復に

努めた(吉野南朝からは、一切補給無、そもそもその様な考えすら持っていなかった)

当然、楠木軍が自前で兵糧、武具、治療を担当した、1336年に湊川の戦いにて、楠木

正成含む、大勢の戦死、負傷者を出し、勢力の回復に努めている楠木軍に、ただ一言

南朝から、「補給せよ」の命だけで、自身らは、一切動かなかった(南朝の負けは、

戦の仕方すら知らない公家らが、トップにいて机上の理論で命令を出していたのが

原因)、正直楠木軍にとっては、迷惑そのもので有ったと思う。大和や北河内で足利

軍と戦い、徐々に消耗していったが、1338年6月10日に堺浦の戦い(石津の戦い)で、

足利軍の高師直に打ち取られ、享年21歳 その首が晒されたのが、阿倍野の北畠神社

である。その間 太平記では、楠木軍が一切動いていない様に何も記されていないが、

泉州北朝方の日根野氏や、生駒山の麓の枚岡、交野方面で小競り合いしていたと

考えられる自軍の兵の数倍の軍の兵站を担った上での戦いである。本当に迷惑この上

ない。ところが、北畠顕家の父の親房は、楠木軍を恨んだであろう(以降の対応が

物語る)、楠木正行(正成5男:庄五郎)ら、楠木軍が再建中の1347年末から、南朝の命で、天王寺で細川軍や紀州で隅田一族、住吉で山名氏ら北朝側を打ち破っていた、

その間の兵站の消耗も馬鹿にならない、しかるに北畠親房南朝方公家に京都に

攻込めという、正直に馬鹿な命令を言われ、今は時期が・・・と返答した正行に

「父正成に劣る奴」と罵詈雑言を浴び仕方なく四条畷の足利軍に戦いを挑み敗北

戦死した(楠木軍3000名ただし、守備にも人員を分ける必要が有るので、実質戦力

1500名以下、足利軍60000~80000名、紀州湯浅一族等、寝返り組多数)、

玉砕である、その後、勝ちに乗じて 

高師直佐々木道誉らにより、吉野が焼かれ、公家らは這う這うの体で、賀名生に

逃げ込んだ、新田義貞の弟の脇屋儀助と共に四国伊予に居た、正成の長男:正之も

弟の正行の挙兵を聞き、河内に駆け付け共に戦死した、弟の正時(正成6男)、正村

(正成:7男)らも戦死した。8男の正義(まさよし)は、四条畷別動隊で、天王寺にて

戦い、大怪我を負い、以降仏門に入った。正行の首は、晒されたが黙庵禅師により

京都、嵯峨野の宝筐院に葬られている。(足利尊氏の長男の義詮が遺言で「自分の墓は

正行の隣に埋葬してほしい」との事で、並んで葬られている)、享年23歳とされて

いるが、実際は30歳前後と思われる。

 

四条畷神社は。1890年(明治23年)に設立され、楠木正行並びに

         楠木正時、楠木正家、楠木正家子息

        和田賢秀 、和田正朝、和田紀六左衛門、和田紀六左衛門子息、

    和田紀六左衛門子息

         大塚惟久 、畠山與三職俊、畠山六郎、野田四郎、野田四郎子息、野田四郎子息

         金岸(某)、金岸(某)弟、関住良円、関住良円子息、三輪西阿、三輪西阿子息

          河邊石掬丸、譽田(某)、阿間了願、青屋刑部

らが祀られている。

上記は多分 誤読で、実際は

1、楠木 正時

2、楠木 将監越智正家

3、和田 新発意 源秀

4、和田 新兵衛 中臣正朝

5、和田 紀六左衛門太夫紀尉 橘正家

6、同子 左衛門太郎 正信

7、同二子 左衛門次郎

8、野田四郎 新家正能

9.同子 野田二郎 正基

10、同次子 松楠丸 

11、西河又次郎 土師清綱

12、同子 二郎太郎 土師清俊

13、開住法眼良円

14、貴志右近

15、同弟貴志弥二郎

16、畠山興三坂上正澄

17、同 畠山六郎経澄

18、河邉 石掬丸

19、大塚 掃部助惟正

20、安間 了願

21、誉田七郎 紀宗輝

22、楠木右近将監 越智正家

上記も 少し間違いが有ると思う

2の越智正家は、楠木正季(正成従兄弟 湊川で戦死)の子の 楠木右近将監正忠か?

3,4の源秀と正朝は、正行の従兄弟(四条畷で戦死)

5,6,7 橘正家は、正成従兄弟、正信、正次は、正行の又従兄弟(四条畷で戦死)

8、9,10 正能は(摂津野田の土豪)正行従兄弟(全員 四条畷で戦死か?)

11、12は、正行の義兄弟(正行の姉か妹の亭主)正俊は、甥っ子(四条畷で戦死)

13、開住良円:戒重西阿の子?(三輪一族 大神神社神主)(四条畷で戦死)

14、正成の従姉妹の婿、15、弥次郎はその子(四条畷で戦死)

16、17、正澄は、生地氏(坂上田村麻呂子孫)か父の伊澄は、湊川で戦死、更に      

   この二人は、四条畷で戦死していない。

18、正成従姉妹の子、正行の又従兄弟(伊賀服部氏に嫁に行った正成姉妹の子?)

19、大塚惟正:兄の正之?

20、一族(四条畷では、戦死していない)

21、一族で無い、同盟者(四条畷で戦死)

まだまだ、一族で 杉本貞俊や、楠木正親らも打ち取られたとの太平記に記載がある。

 

        

ヒロ君の独り言

テレビで兵糧丸(和菓子)の紹介をしていた。

作り方がやはり、和菓子だった。

本当の兵糧丸は、戦場(戦国時代)で米が炊飯出来ない時の代食である。

作り方は、大豆をお酒に浸し、柔らかくなったら、すりつぶし、ハチミツを入れ、

団子状に丸め、乾燥させ、日持ちするようにする。直径3cm程、たいていは、おにぎり

を作り、夜など、味噌を塗って焼きおにぎりにして食べる、その他、炊飯したコメを

一旦 水にさらし、乾燥させ、干飯を作り、竹筒に水を入れ そこに干飯を入れて、

ふやかして食したり、そのまま食べ、後で水を飲むと言う段取りが多かったらしい。

直径1cm程の兵糧丸を袋に入れ、天井裏等に忍んだ忍者が、水と兵糧丸だけで、数日

監視を続ける事も有ったらしい、出身地域により、蕎麦粉を大豆の代わりにしたり、

米粉を大豆の代わりにしたりした所もあったらしい。

太平洋戦争時の日本軍や、現在の非常食として乾パンも一種の兵糧丸である、ただ、

食べる時、音がしてはいけないのが、忍者用の兵糧丸であるらしい(昔 甲賀

仕事で滞在した折、先祖が伴家の甲賀忍者だったという爺さんに聞いた事がある。)

戦場に駆り出された農民兵は、年に一、二度しか食べられない米の飯が食べられ、

その時だけは、幸せを感じたらしい。

現在、地震等で、電気が止まったら、浄水場の水道水も止まり、下水場も稼働しない

ので、タワーマンションの高層階住んでいる人はどうするのだろう?背筋が寒くなる。

阪神大震災の折、病院や工場の稼働準備に行ったが、水洗トイレが当然使えず、水も

なく、自転車やバイクはすぐにパンクするから使えず、苦労した記憶がある。

特に、トイレは悲惨だった、うんちが山積みになっていた、マンホールの蓋を開けて

簡易トイレを作った所など行列が出来ていた、知人に頼んで使っていない船(結構

大きかった、クレーンが必要だったので)を出してもらった、岸壁の近くで若い女性や

子連れの母親がトイレを使わせてほしいと、泣きそうな顔をして頼んできた、友人は

岸壁に直接接岸できないので、小舟で何度も往復し、船のトイレ、風呂、洗濯機を開放

して、仮眠室で、被災者を寝かせ、温かいカレーを振舞っていた、材料も飲料水も

燃料も、汚水タンクも満杯になったので、仲間に補充を依頼し、数か月頑張っていた。

本当に頭が下がる、泉佐野漁業組合 最高!!

 

 

今回 女性天皇を調べていましたが、

男性も風土記やらで、既に天皇であった方もいらしたと言う事を

記します。

1、神功皇后史書によると、第15代 天皇と記されている。(前回記しました)

2、飯豊青皇女履中天皇の皇女と言う説と、履中天皇の皇子の娘(王女)と言う

  2つの説がある、後に記します。

3、推古天皇:第33代天皇

4、皇極(斉明)天皇:第35,37代天皇。(天智、天武天皇の母)

5、持統天皇天武天皇皇后(天智天皇の皇女)第41代天皇

6、元明天皇天智天皇の皇女で天武、持統天皇の皇子の草壁皇子の皇后、

  第43代天皇

7、元正天皇元明天皇草壁皇子の皇女、第44代天皇

8、孝謙(懿徳)天皇:第45代聖武天皇の皇女、母は皇族でなく藤原光明皇后

  第45,47代天皇恵美押勝の乱吉備真備等と鎮圧したが、後に藤原氏により

  奈良西大寺で幽閉させられ、はぼ殺された、天武天皇系最後の天皇

9、明生天皇:第108代 後水尾天皇皇女、第109代天皇(1629年即位)。

10、後桜町天皇:第116代 桜町天皇皇女、第117代天皇(1762年即位)。

NO,1,2の神功皇后飯豊天皇以外は歴史通り、

NO,2の飯豊天皇は、少しややっこしい、同名の人物が二人いる、

一人目は、青海郎女(履中天皇皇女)、二人目は、忍海郎女(履中天皇の皇子市辺

押磐皇子の皇女)、二人は叔母と姪の関係である、もともと、青海も忍野も葛城山

麓、現在の御所市の事で、更に二人とも「飯豊皇女」と呼ばれている。

因みに「いいとよとは、ふくろうを表す言葉」である。

忍野郎女の父(市辺押磐皇子)は、第20代の安康天皇から、譲位され、「市辺天皇」と

播磨風土記に記されているが、天皇家系図では、天皇とされていない。

ある日、従兄弟の小泊瀬皇子(後の雄略天皇)と滋賀県蒲生郡日野町に狩に行き、

舎人の佐伯部仲子と共に、弓で射殺され、二人まとめて、穴に放り込まれてしまった。

市辺皇子の皇子達は播磨に逃れ身分を隠したが、皇女の忍海郎女は、叔母の青海郎女の

元に逃げ込み匿われた(青郎女と市辺皇子は兄弟)、雄略天皇が「倭王:武」とすれば

(謎の5世紀 倭の五王:賛、珍、斎、興、武)、宋書に477年倭王「武」から使いが

あり、兄が崩御したので、自分が即位したと言ってきている、そして、古事記では、

489年に崩御されたと記されている。約12年、忍野郎女は叔母の元で、隠遁生活を

送っていた事になる、その間、叔母は当時の寿命からすると、亡くなっていたかも

知れない、だから 叔母の遺領をそのまま引き継いだのだと思う。中国の宋の後の

王朝の『南斉書』・『梁書』においても、それぞれ南斉・梁の建国時(479年502年

に武が任官されたことが記されている、雄略天皇崩御の年が、502年以降なら、隠遁

生活は25年に及ぶ事も考えられる、雄略天皇が皇太子の白髪皇子(後の22代清寧天皇

に譲位したが、病弱で、同じく雄略天皇の皇子の星川皇子の反乱もあり、大和朝廷

豪族達は、飯豊忍野郎女に目を付け即位させたと考えられる、扶桑略記には、飯豊天皇

第24代天皇と記され、他の史書にも「清貞天皇(せいていてんのう)」諡号まであり、

天皇の扱いとなっている。

明治時代から昭和20年までには「歴代天皇の代数には含めないが、天皇の尊号を贈り

奉る」としていた。現在も宮内庁では「履中天皇々孫女 飯豊天皇」と称している。

これは 不即位天皇としての扱いである。

政務期間は、数か月で、一年後に45歳で崩御された事になっているが、第22代清寧天皇

第23代 顕宗天皇、第24代 仁賢天皇が、実在か否か問題が有り、兄弟である、仁賢天皇

(播磨に逃げ姿をくらませた)の子の、手白香皇女(後の継体天皇皇后)と実在が

疑われている武烈天皇の二人の従兄弟達も連れて、叔母である飯豊青郎女の元に

逃げ、数年政務を執り、姪の手白香皇女を嫁がす事により、継体天皇に権力を譲った

のでは、無いだろうか?

武烈天皇がいなかった理由として 名が仁徳天皇の「オオササギ」と雄略天皇

「オハツセワカタケル」を合した、「オハツセワカササギ尊」と作為が見られる。