ヒロ君の独り言

四条畷の合戦、楠木正行四条畷神社について

四条畷の合戦背景

1338年 2度目の奥州からの遠征(1度目は1335年)を吉野南朝(父 北畠親房

からの要請された(命令)北畠顕家が、足利軍を美濃の国青木ヶ原関ケ原)の合戦で

打ち破ったが 600kmに渡る遠征距離に食料物資、人員の疲労により、第1次遠征時

近江の琵琶湖を渡り、楠木正成共々京都で足利尊氏軍を打ち破り九州に追いやったが

今回は、上記の通り、物資、疲労により(足利軍が、敗残兵をかき集めて近江で陣を

敷いていた)伊勢方面から、吉野に進んだ、その折、父の北畠親房や、他の公卿ら

から、苦情を言われ、河内(楠木領地内)で、兵馬の補給、物資の補給疲労回復に

努めた(吉野南朝からは、一切補給無、そもそもその様な考えすら持っていなかった)

当然、楠木軍が自前で兵糧、武具、治療を担当した、1336年に湊川の戦いにて、楠木

正成含む、大勢の戦死、負傷者を出し、勢力の回復に努めている楠木軍に、ただ一言

南朝から、「補給せよ」の命だけで、自身らは、一切動かなかった(南朝の負けは、

戦の仕方すら知らない公家らが、トップにいて机上の理論で命令を出していたのが

原因)、正直楠木軍にとっては、迷惑そのもので有ったと思う。大和や北河内で足利

軍と戦い、徐々に消耗していったが、1338年6月10日に堺浦の戦い(石津の戦い)で、

足利軍の高師直に打ち取られ、享年21歳 その首が晒されたのが、阿倍野の北畠神社

である。その間 太平記では、楠木軍が一切動いていない様に何も記されていないが、

泉州北朝方の日根野氏や、生駒山の麓の枚岡、交野方面で小競り合いしていたと

考えられる自軍の兵の数倍の軍の兵站を担った上での戦いである。本当に迷惑この上

ない。ところが、北畠顕家の父の親房は、楠木軍を恨んだであろう(以降の対応が

物語る)、楠木正行(正成5男:庄五郎)ら、楠木軍が再建中の1347年末から、南朝の命で、天王寺で細川軍や紀州で隅田一族、住吉で山名氏ら北朝側を打ち破っていた、

その間の兵站の消耗も馬鹿にならない、しかるに北畠親房南朝方公家に京都に

攻込めという、正直に馬鹿な命令を言われ、今は時期が・・・と返答した正行に

「父正成に劣る奴」と罵詈雑言を浴び仕方なく四条畷の足利軍に戦いを挑み敗北

戦死した(楠木軍3000名ただし、守備にも人員を分ける必要が有るので、実質戦力

1500名以下、足利軍60000~80000名、紀州湯浅一族等、寝返り組多数)、

玉砕である、その後、勝ちに乗じて 

高師直佐々木道誉らにより、吉野が焼かれ、公家らは這う這うの体で、賀名生に

逃げ込んだ、新田義貞の弟の脇屋儀助と共に四国伊予に居た、正成の長男:正之も

弟の正行の挙兵を聞き、河内に駆け付け共に戦死した、弟の正時(正成6男)、正村

(正成:7男)らも戦死した。8男の正義(まさよし)は、四条畷別動隊で、天王寺にて

戦い、大怪我を負い、以降仏門に入った。正行の首は、晒されたが黙庵禅師により

京都、嵯峨野の宝筐院に葬られている。(足利尊氏の長男の義詮が遺言で「自分の墓は

正行の隣に埋葬してほしい」との事で、並んで葬られている)、享年23歳とされて

いるが、実際は30歳前後と思われる。

 

四条畷神社は。1890年(明治23年)に設立され、楠木正行並びに

         楠木正時、楠木正家、楠木正家子息

        和田賢秀 、和田正朝、和田紀六左衛門、和田紀六左衛門子息、

    和田紀六左衛門子息

         大塚惟久 、畠山與三職俊、畠山六郎、野田四郎、野田四郎子息、野田四郎子息

         金岸(某)、金岸(某)弟、関住良円、関住良円子息、三輪西阿、三輪西阿子息

          河邊石掬丸、譽田(某)、阿間了願、青屋刑部

らが祀られている。

上記は多分 誤読で、実際は

1、楠木 正時

2、楠木 将監越智正家

3、和田 新発意 源秀

4、和田 新兵衛 中臣正朝

5、和田 紀六左衛門太夫紀尉 橘正家

6、同子 左衛門太郎 正信

7、同二子 左衛門次郎

8、野田四郎 新家正能

9.同子 野田二郎 正基

10、同次子 松楠丸 

11、西河又次郎 土師清綱

12、同子 二郎太郎 土師清俊

13、開住法眼良円

14、貴志右近

15、同弟貴志弥二郎

16、畠山興三坂上正澄

17、同 畠山六郎経澄

18、河邉 石掬丸

19、大塚 掃部助惟正

20、安間 了願

21、誉田七郎 紀宗輝

22、楠木右近将監 越智正家

上記も 少し間違いが有ると思う

2の越智正家は、楠木正季(正成従兄弟 湊川で戦死)の子の 楠木右近将監正忠か?

3,4の源秀と正朝は、正行の従兄弟(四条畷で戦死)

5,6,7 橘正家は、正成従兄弟、正信、正次は、正行の又従兄弟(四条畷で戦死)

8、9,10 正能は(摂津野田の土豪)正行従兄弟(全員 四条畷で戦死か?)

11、12は、正行の義兄弟(正行の姉か妹の亭主)正俊は、甥っ子(四条畷で戦死)

13、開住良円:戒重西阿の子?(三輪一族 大神神社神主)(四条畷で戦死)

14、正成の従姉妹の婿、15、弥次郎はその子(四条畷で戦死)

16、17、正澄は、生地氏(坂上田村麻呂子孫)か父の伊澄は、湊川で戦死、更に      

   この二人は、四条畷で戦死していない。

18、正成従姉妹の子、正行の又従兄弟(伊賀服部氏に嫁に行った正成姉妹の子?)

19、大塚惟正:兄の正之?

20、一族(四条畷では、戦死していない)

21、一族で無い、同盟者(四条畷で戦死)

まだまだ、一族で 杉本貞俊や、楠木正親らも打ち取られたとの太平記に記載がある。