ヒロ君の独り言

友人から、拙い私の独り言を楽しみに見ておられる 僧侶の方がおられると聞き、常に

「般若心経」の(偏らない心)の精神を貫いている事への 成果だと自己満足して

居ります。

今回は方墳について。

字の如く 四角い古墳の事で、奈良では蘇我氏系の独特の古墳である。

石舞台古墳:伝蘇我馬子・都塚古墳(ピラミッド型と発掘調査で判明):伝蘇我稲目

何故か明日香から太子町に改葬された推古天皇(明日香では息子の竹田皇子と植山

古墳に埋葬されていた。)・用明天皇来目皇子聖徳太子弟)この太子町には。

何故か 伝蘇我蝦夷。伝蘇我倉山田石川麻呂の古墳もある。

祟峻天皇蘇我馬子に暗殺されたとの言い伝え有り)御陵は、奈良県桜井市にあるが

現在の天皇陵は間違いで(単なる丘)実際は倉橋の天王山古墳(1,2,3号墳 それぞれ

方墳)1,3号墳には、学術研究の為、入ったことがあるが、1号墳には、立派な家型石棺

があり、ものすごく広い、2号墳は入り口が狭く入れなかった、3号墳は、粘土槨に四角

い型が残っていて、高貴な方の棺桶(絹を漆で何重にも重ねて箱状にした漆棺)が

安置されていたと思う、驚くほど広かった、このどれかが天皇陵と思う。また

祟峻天皇蘇我系、しかし 蘇我系の聖徳太子は何故か円墳、

太子町の 推古天皇の南側に 二子塚古墳が有る、双方墳で、一辺25mの方墳が二つ

並んでいる、横穴式の石室の大きさ、構造も全く同じで同時期に造成された物で

7世紀中旬から 7世紀後半に作られ、内部の石棺も同型でかまぼこ型まで同じ、

江戸時代は、北側の推古天皇(竹田皇子との合葬墳)とも推定されていた。

気になるのは、大化の改新で暗殺された蘇我蝦夷、入鹿の墓ではないかと思っている。

藤原氏は、本来の天皇家である蘇我氏が余程邪魔だったのか、蘇我氏系列の古墳を

改葬し、明日香の地から、排除している、日本書紀古事記も書き換え、都合の良い

歴史にしている、何せ 朝鮮半島には帰れない(藤原氏百済遺臣)、しかし、邪馬

台国系の天智天皇系を操り、現在に至るからである。(光仁天皇桓武天皇等)