ヒロ君の独り言

とある神職の方と話をした。

何故、天皇家が続いていると言う話。

王朝交代や、倭国とヤマトの合併も有ったが、百済遺臣達の(藤原氏)の画策で

一つの王朝が続いていると言う事に歴史書が書き換えられた。

以前話した、阿波文字等、漢字以前の日本古来の文字による歴史が綴られている

物が、出雲大社の千家、奥州阿部一族(安東氏)の子孫の秋田家等、日本古来からの

家には、本当の歴史書が残っていると思う。

朝鮮の新羅国など「三国史記」(10世紀の高麗時代に編纂された朝鮮の歴史書

には、建国から3代までの王は、倭人であると記されている(韓国人の頭は、沸騰

するだろう)しかし 漢字が読めない韓国人に真偽は、わからないし、わかろう

ともしないだろう、その新羅は、中国の秦(商)の遺臣達に乗っ取られた、ゆえに

倭国の侵攻を何度も受け、服従を誓ったと「三国史記」に記されている。

この新羅の風習は、従来の朝鮮族の風習とは全く違った風習を持っていると例の

三国史記」に記されている。

後に唐と連合し、倭国を追い出し、唐をも追い出して、朝鮮を統一したが、唐の

後ろ盾を失った新羅は、高句麗の遺臣たちの高麗に取って代られた(高句麗朝鮮族

ではなく、中国の一部族である)、しかし、現在の韓国では、出身地差別で

新羅の土地が一番位が高いとされている。

同じく百済遺民の藤原氏も当然、謀略暗殺の作術を展開させ、藤原仲麻呂恵美押勝)のクーデターを阻止した天武天皇系列の孝謙天皇(女帝)を暗殺し、自身の傀儡の

天智天皇系の光仁天皇を立て、実質的な政権略奪を図ったが、出雲族:鴨族の当時の

長の菅原道真に阻止され、謀略を以って九州に左遷させ暗殺したが、菅原遺臣たちの

クーデターにより、藤原四家の棟梁達が全員暗殺された(疫病で死んだ事になっている)、しかし、鴨族の計算違いは、この光仁天皇が、親藤原の政治を行い、党首達を

暗殺され力を失った藤原氏を存続させ、天武系の自身の皇后である「井上親王」及び

2人の間に出来た他戸皇太子を廃嫡し奈良五条の地に幽閉し殺害した、当然鴨族の

反撃を受け、慌てて 御陵を作り、二人の霊を慰めたが、新しく夫人に迎えたのは

帰化人の高野新笠(何故か、丹波の土師氏出身とされているが 土師氏は鴨族)で、

後に桓武天皇や讃良親王桓武に謀反の罪で幽閉させられ餓死させられたが

遺臣たちの反抗が凄まじく、後日「祟道天皇」として祭られた)を生んでいる。

更に母方の位が低いため 本来天皇になるバックアップが無かった、桓武天皇

何故か皇位を継いだ(平成上皇が、桓武天皇の母は、帰化人の”高野新笠”であると

正式に発表された)、しかし 鴨族は藤原氏を牽制しつつ 京都市北部に高加茂神社、

賀茂神社を建て、勢力を残した、(織田信長も先祖は忌部氏との話があり、藤原氏

の牽制に努めた、これが本能寺の変の陰謀の元)。

ただ、現在も藤原氏の血筋(近衛家)が続いている為、迂闊な事は言えない。

韓国の横暴に対しての反撃の阻止もこの一環かも。

ヒロ君の独り言

その様な本ばかり読んでるので、

また太平洋戦争の事を書きます。

日本のシンドラーで有名な杉原千畝

彼にもらった旅券で多くのユダヤ人が出国出来た。

ただ 彼だけでなく、ハンブルグの領事館や、他の領事館でも旅券を出している。

(教科書には載っていない) その旅券を握りしめてシベリア鉄道満州

向かったユダヤ人の人々に対し、日独伊三国同盟の為、ドイツに遠慮して満州への

入国は陸軍軍令部の命で拒否され、極寒のシベリアで数多くのユダヤ人が途方に暮れて

いた、満州関東軍参謀総長の樋口将軍が 軍令部に対し「人道的対応をします」と

連絡し、返答を待たずユダヤ人を入国させ、上海や、神戸からアメリカに出国させた。

終戦時、この樋口将軍は北海道を指令部として、満州、モンゴル、樺太北方領土

の守備を受け持っていた、将軍は、各守備隊に武装解除せず、民間人保護に努める

様命令を出したが、満州関東軍は、ソ連軍が8月13日に侵攻してきた時、

上層部がいち早く引上げて残った兵は、武装解除に応じた為、満州の悲劇が起きた。

モンゴルの守備隊の「根本博将軍」は、開拓団3万人の民間人を守り、樋口将軍の

命令通り、武装解除せず侵攻してきたソ連兵、中国兵、朝鮮人匪賊の襲撃を跳ね

返し、蒋介石の好意で、衣食住を整えてもらい無事民間人を帰国された、この

帰国した民間人に進歩的文化人の方々は、中国やモンゴルの人々に迷惑をかけたの

だから、自身自らシベリアに行くべきだと朝日新聞を通じて報じた。

樺太は、軍が壊滅し「氷雪の門」の小説の通り、多数の婦女子が服毒自殺をとげた

満州で婦女子がどのような目にあったか、連絡が回っていたのだろう。

北方領土占守島では8月17日にソ連軍が上陸して来た為(ポツダム宣言

受け入れ降伏した後)、守備隊は反撃を行い、ソ連軍に多大な被害を出させた

(3000人以上の死傷者)、しかし重要なのは、この島には缶詰工場が有り700人の

女子が働いていた、占守の守備隊長は、民間船でも漁船でもよいので、婦女子を

北海道に送れと命令し、無事 700人の婦女子が北海道に着いたとの電文を受信後 

ソビエトと停戦交渉に入り、武装解除されたが、ソビエト兵は、楽しみの婦女子が

一人も居ない事に怒り、日本人将校を何人か銃殺し(犯罪である)部隊をシベリアに

搬送し使役させた(犯罪)。

樋口将軍は、ソビエト侵攻の情報を掴み、武器弾薬、将兵の増員を依頼したが

大本営関東軍も無視、根本将軍は手持ちの軍勢で対応し、占守守備隊は、少数なのに

戦車部隊を先頭にソビエト軍に突入し、壮烈な戦闘を行った。

樋口将軍は戦後 イスラエル政府から、勲章をもらい感謝された。

根本将軍は、国民党が台湾に避難し、人民解放軍にやられそうになった時、

蒋介石には、恩が有ると言って、釣りに行くと家族に言って、日本をこっそり

漁船で出国し、金門島で国民党軍を指揮して、人民解放軍に大損害を与え

台湾侵攻をあきらめさせた、ただし、元日本軍将校が台湾軍を指揮した

と言えば、中国や日本の進歩的文化人朝日新聞がうるさいので、一切表に

出ず、「武神」と呼ばれ、戦後飄々と帰国し、批判する人々を煙に巻いた。

後日蒋介石が、根本将軍にお礼の壺を進呈してきたが、同じ壺を持っているのは

エリザベス女王昭和天皇の二人のみ。家族は、そんな物普通の家で管理できないと

博物館に寄贈した、

日教組及び進歩的文化人が牛耳る教科書には、絶対出て来ない話である。

 

 

ヒロ君の独り言

私らの世代は明治と言う時代にあこがれる。

何故なら、江戸時代末期の激変の時代を生き残った人々が作った時代だから、

諸外国に遅れるな、と言う事で模倣も含め、技術の革新に努めた。

黒船来襲後、数年後には、蒸気船を日本人だけで操船したり、修理したり、

数十年後には、国産の蒸気船を作ったり、どれだけ情熱を持って邁進したの

だろう、日清戦争日露戦争を指揮したのも江戸時代の戊辰戦争を経験した

将軍達の指揮が有ればこそ 何とかなったのも事実。その将軍たちは決して

「為せば成る」とは言わなかった。「成らぬものは成らん」つまり 成るように

工夫せよである、武器弾薬食料が無ければ、戦闘は出来ない、明治期の戦争は

それらを無理しても段取して、事にあたっけきたが、明治生まれの 昭和の

将軍達は「為せば成る、大和魂が、云々」そして責任放棄、明治期に生まれた

官僚体制がそのまま残った、令和皇后のいた外務省も、日本に在りながら、

本当に日本の外務省なのだろうか?という状況だし、何かあれば責任を取る

という人物もいない、大阪の2重行政問題、大阪市の人口の倍いる横浜市

役人の人数は、大阪市の半分 これは何を意味しているのか? 議員の人数も

群を抜いて多い大阪、何をしているのだろうか? 区議会議員、市議会議員、

府議会議員、どれだけいるのか、どれだけ税金の無駄使いをしているのだろうか?

国会でも 討議を放棄した議員の給料は、放棄期間分差し引くべきであると思う。

その浮いた税金を、貧困家庭の子供の食費 100円食堂(居場所のない子に 

閉校している学校を開放し、食事だけでなく、ボランティアに依頼し、入浴や

宿泊、寄贈された衣服を着せ、勉強を見てやる。)等に使う方がどれだけ役に

たつか、必ず「何かあった時の責任は誰が取るのか」という 人間性、常識を

置き去りにし知識だけが先行した、革新的な考えの方が反対するだろうが、

事が起きないように努力し、起きた時は国が責任を取るのが当たり前だろう。それが

理解出来ない人は、創造力が無さ過ぎる、その子供たちが、将来税金を払ってくれ、

そんなしょうもない考えしか持たない将来の老人の介護費用を支払ってくれる。

つまり 子は宝である。いじめ問題も 私たちが子供の時、上級生達から、いじめは

人間として最低である、弱い者いじめをするなと、叩き込まれた。

弱い者いじめをした先輩は、同僚先輩達に粛清されていた。

それが、日本人としての教義では無いだろうか?

ヒロ君の独り言

本を読んでいて 最近Q頭と言うのがあるらしい、

特徴は、「昼休み部屋の電気を消せ」とか「お前が責任を取れるのか」

など、目先の利益をだけを考え、5年後、10年後、いや1年後の展望すら

想像できない人物が上層部になっている。確かに省エネは大切だが、

その間仕事を進めている人もいるという事を無視して言い続けている。

最近の大学でも、研究テーマは毎年同じで 教授から指示された事を

して、気に入られる卒論を書いて卒業。

社会に出て応用が効かず、落ちこぼれとなって行く、そんな人物が

イライラを家族や子供に発散しているのでは無いだろうか?

仕事に達成感を感じて過ごしている人に、虐待やDVをする人物が居るだろうか?

正直、へたな大卒より、中卒で家族を抱えて必死に働いている人の方が、社会的

には、役に立っているのでは、無いだろうか? 東大阪や、東京の下町にある

中小企業の職人さん達、精密機械ですら察知できない誤差を手や耳で感じる

仕事のプロ達、今の世間では、排除され、皆が平均的に仕事をこなせれば良いと

言う風潮だが、日本と言う国を戦後引っ張って来たのは、そういう職人さん達の

英知と創造力では無いだろうか? 大学の授業も学生一人一人の創造力を伸ばし

基礎研究に力を入れ無ければ、5年後、10年後のノーベル賞を受賞できる人材は

居なくなるだろう、そこそこの人がそこそこの仕事をしそこそこの給料を

貰い、マンションや一軒家を買い、そこそこの生活をしている、確かに幸せ

だろうか? 何lか事が有れば、対応できるだろうか?

その為、賃金が上がり、世界との競争力が無くなった。

太平洋戦争時、戦闘機や戦艦の部品を作っていた、指折りの技術者、職人ですら

赤紙一枚で、実績も関係なく、弾除けと徴兵した陸軍、会社に残せば、終戦前の

故障だらけで飛べない飛行機や、性能の低下した各武器、今の官僚社会と同じ

そんな不都合なことをしても、誰も責任を取らない、不都合は、無かった事に

して、何の教訓も無く、同じ事を繰り返すが、(児童虐待死亡事故)児童相談所

担当責任者及び、上層部が、引責したとの話は一切聞かない。

何度同じ事を繰り返すのだろう、いじめ問題の隠蔽ばかり図る教育委員会

またかっと言うだけで関心のない社会、全て他人事、昔 死刑廃止論者の

弁護士が、自身の娘がレイプ殺人事件の被害者になったとたん、死刑推進者に

変貌した事例など、自分がその立場にならなければ、わからない世間の人々

このままなら、いずれは日本自体、2流3流の国家になるのももうすぐだろう。

世の中は 平成から令和に変り、

それを祝ってか澁谷で大暴れしている若者、後には

ゴミがまきちれされていた、情けない、教育、躾のせいか?

丸谷元人」著書の「日本の南洋戦略」を読みました。

きっとマニアも知らない戦場だと思います。

ニューギニア戦線の事で、アメリカ軍、オーストラリア軍と

日本陸軍第18軍との戦闘の戦場であった。同著者の「コヒマ」

と言う本にも書かれているが、現場を知らない馬鹿共(軍令部)

の命令でスタンレー山脈を弾薬、食料の補給も無く走破し、ポートモレスビー

(当時連合軍の基地)の攻略を目指した、当然 食料が無いので、戦闘で死ぬ兵士

より、戦病死、衰弱死で多数の兵士の方々が亡くなった、第18軍の司令官だった

安達二三三将軍は、そんな状況でも現地人の助け応援のもと戦線を何とか

維持していたが(その為、多数の現地の方が巻き込まれて亡くなった)、

唯一 連合軍と互角に戦い、大18軍をサポートしていた「ラバウル航空隊」を

引上げさせたので、連合軍の空襲の被害もまともに受ける事により、島の北端に

追い詰められたが、終戦時まで何とかそこを守り抜いた、当然補給が無いため

まともに歩ける兵士も少なく、部隊の移動もままならなかった、そんな折

上層部からの移動の命令があった、歩けない衰弱した兵士は、捨てていく事に

なった、戦友にそんな事が言えるか? しかし それを察知したした傷病兵達は、

撤退していかなければならない戦友に対し「後は任せろ、敵を食い止めてやる、

そんな重い機関銃は置いていけ」撤退する兵士を送り出した。

そんな傷病兵だけの部隊など、連合軍にしたら、歯牙にもかけず、あっと言う間に

突破されると撤退した日本兵は思っていたが、連合軍の記録は、10日もの間、装備の

充実した(戦車すら有った)連合軍の攻撃を何度も跳ね返した、戦闘終了後、

まず 歩けないであろう傷病兵たちの遺体が有るだけであった、(そんな兵士の

部隊に10日間も阻止されていた)その状況に驚いていた。

ある兵士の遺体から、日記が見つけられ、10日前から、完全に歩けなくなったが

皆の為、頑張ると書いてあったが、最後に 本土に残してき愛娘に会いたい、

幸せになってほしい、と記されたいたと通訳され、戦闘相手の連合軍兵士が

涙したと記されていた、終戦時降伏した日本軍は捕虜収容所に収監され、最後の

兵士が本土に帰還した後「安達二三三」将軍は、一人残った刑務所で(扉に

鍵すらかかっていない)で、戦死した兵士に謝すと遺書を書き自害された。

(サムライを見た、責任の取り方)

本日からの上皇陛下が、皇后さま(大后)と南太平洋等の戦跡に慰霊の訪問を

された、きっと現地で戦死された兵士たちの御霊を迎えに行かれたのだと思う。

あの 激戦で2万人近い日本兵が戦死した硫黄島で、現在は海上自衛隊員しか

駐屯していないが、現地では霊感の無い隊員ですら、窓からこちらを見ている

血まみれの兵士の姿や、水を入れている冷蔵庫が揺れていて、ミネラルウォーター

のボトルの栓が開いていないのに水が無くなっている事をほぼ全自衛隊員が経験

していたが、上皇陛下が、慰霊の為、硫黄島を訪れた後、その怪奇現象が一切

無くなったと聞いた事が有る。

 

ヒロ君の独り言

補説

ヤマト国が奈良のスサノウ王朝の巻向連合と合体したと

書いたが、やはり反対勢力はあった、登美ナガスネヒコ、アビヒコ兄弟である。

彼らは、ヤマト軍を東大阪生駒山の麓の日下で迎え撃ち ヤマト軍は

盾を海岸縁に並べて防戦(現在の盾津)したが、敗れた、当時大阪平野は、

上町台地が海に突き出た半島であり、大阪市東大阪の地は、内海であった、

従って、奈良盆地も中心部は内海で大阪側から船で行き来出来ていた、そこでの戦い

で、ナガスネヒコ軍は、物部連合軍に裏切られ、奈良から一族を連れて逃げた、

ナガスネヒコは、日本海側、アビヒコ軍は太平洋側を追撃を排除しつつ、東北に

至り、軍を合流させたところが「会津」と言われている。

このナガスネヒコ軍にヤマトで藤原氏に排斥された物部氏が合流し、後の

奥州阿部一族藤原氏になっていく。

藤原氏に排斥されたのは、平群氏、葛城氏、佐伯氏(讃岐に逃れ佐伯水軍を設立

し、中国と貿易を行っていた、空海は、この佐伯氏の子孫)、越智氏(伊予に逃れ

風土記に書かれている、百済水軍が日本に攻めてきた折、瀬戸内海で越智真澄

迎撃され(越智水軍)最終的には、神戸沖で壊滅させられたとの記録が有る。

その他 忌部氏(阿波や、出雲に逃げた)、大伴氏は既に勢力が無くなっていた。

ヒロ君の独り言

前回書いた ヤマト国(邪馬台国)と出雲族 倭国の文章の修正

朝鮮半島前漢の領土(ほぼ北朝鮮)は、楽浪郡で無く「帯方郡

当時の一里は750mでなく、75m、当時、釜山から対馬まで1000里と

魏志倭人伝に記されている、直線距離で75kmは、ほぼ合っている。

徳島県の上山町は、神山町であった。

この魏志倭人伝に記されている距離は、直線で記され、帯方郡の都市(帯方郡治)

から南西方向12000里で半円を記すと 神山町の上をなぞる 更に項羽の故郷の

会稽から真東に邪馬台国が有ると記され その位置が上記の12000里と交わるのが

徳島県神山町である。

邪馬台国(ヤマト)は、春秋戦国時代から(蓬莱)として知られていて、徐福が

始皇帝の命で不老不死の薬を求めて 和歌山県の新宮近辺に上陸し、住み着いた例

も有るが「魏志倭人伝」「後漢 東夷伝」「梁書 東夷伝」「隋書 東夷伝」にも、

記されている。

最終的にヤマト国は、奈良県の同盟国に遷都し「ヤマト:大和」とした、和とは

連合と言う意味を表し、ヤマト大連合国を大和と漢字を後世の人間が当てたとも

聞いた事が有る。ヤマト国以前の巻向王朝のスサノオノミコトの五男が大神神社

祀られている大歳で、オオナムチ王国の遺臣や、島根に住み着いていた、出雲族

代表がオオナムチ(大国主命)の息子のアジスキタカヒコネ(武角見)で加茂族の

祖として、大和葛城山の麓で暮らしていたが、大歳の娘の御歳(ミトシ姫)良い仲に

なり 子を授かった(イサ速男:大阪市城東区鴫野に神社がある)が、後継ぎ

(大歳の)問題で 大歳の息子達に武角見(タケノツノミ)が暗殺され、鴨族は

タケノツノミを葛城山に埋葬しその一族を祀った(大国主、タギリ姫、事代主、

下照姫、アメノ若彦(下照姫の旦那))、それを現地では「高鴨神社」と言う、

タケノツノミの死後、ミトシ姫は、葛城山の麓に居を建て、タケノツノミの霊を慰め

その地で無くなった、その地を下鴨神社と言い、後に鴨族が、山城に移住する時

共に分祀し現在の京都市内の、高加茂、下賀茂の両神社となった、

ヤマト国は、奈良に遷都後、在来の豪族達と大連合国家(大歳の子孫の物部氏

葛城氏、平群氏、和邇氏等)、そして勢力を回復させ、唐、新羅連合軍との戦争時

白村江の戦い)に倭国と共に朝鮮半島に攻込み、百済加羅任那の遺民達を

連れて、日本に帰り、各地に兵を差し向け、周囲を固め、倭国内の政権争いに

関与し、日本の中心部を治めた(当時、関東は別の国、九州の熊襲族の反乱軍を除く)

そして、ますます勢力を拡大させヤマト朝廷に至ったと思う。

また、紀元前から中国に朝貢していたので、漢字は、使えるが 古代文字も存在し

日本中やり取りが有ったが、藤原氏百済遺民の子孫)によって 使用を停められ

漢字だけ(後にひらがな、カタカナを追加)となった、蘇我氏(ヤマト国国王)の

入鹿が暗殺された時、藤原氏により古代文字を排除させられたのでは、無いだろうか、