世の中は 平成から令和に変り、

それを祝ってか澁谷で大暴れしている若者、後には

ゴミがまきちれされていた、情けない、教育、躾のせいか?

丸谷元人」著書の「日本の南洋戦略」を読みました。

きっとマニアも知らない戦場だと思います。

ニューギニア戦線の事で、アメリカ軍、オーストラリア軍と

日本陸軍第18軍との戦闘の戦場であった。同著者の「コヒマ」

と言う本にも書かれているが、現場を知らない馬鹿共(軍令部)

の命令でスタンレー山脈を弾薬、食料の補給も無く走破し、ポートモレスビー

(当時連合軍の基地)の攻略を目指した、当然 食料が無いので、戦闘で死ぬ兵士

より、戦病死、衰弱死で多数の兵士の方々が亡くなった、第18軍の司令官だった

安達二三三将軍は、そんな状況でも現地人の助け応援のもと戦線を何とか

維持していたが(その為、多数の現地の方が巻き込まれて亡くなった)、

唯一 連合軍と互角に戦い、大18軍をサポートしていた「ラバウル航空隊」を

引上げさせたので、連合軍の空襲の被害もまともに受ける事により、島の北端に

追い詰められたが、終戦時まで何とかそこを守り抜いた、当然補給が無いため

まともに歩ける兵士も少なく、部隊の移動もままならなかった、そんな折

上層部からの移動の命令があった、歩けない衰弱した兵士は、捨てていく事に

なった、戦友にそんな事が言えるか? しかし それを察知したした傷病兵達は、

撤退していかなければならない戦友に対し「後は任せろ、敵を食い止めてやる、

そんな重い機関銃は置いていけ」撤退する兵士を送り出した。

そんな傷病兵だけの部隊など、連合軍にしたら、歯牙にもかけず、あっと言う間に

突破されると撤退した日本兵は思っていたが、連合軍の記録は、10日もの間、装備の

充実した(戦車すら有った)連合軍の攻撃を何度も跳ね返した、戦闘終了後、

まず 歩けないであろう傷病兵たちの遺体が有るだけであった、(そんな兵士の

部隊に10日間も阻止されていた)その状況に驚いていた。

ある兵士の遺体から、日記が見つけられ、10日前から、完全に歩けなくなったが

皆の為、頑張ると書いてあったが、最後に 本土に残してき愛娘に会いたい、

幸せになってほしい、と記されたいたと通訳され、戦闘相手の連合軍兵士が

涙したと記されていた、終戦時降伏した日本軍は捕虜収容所に収監され、最後の

兵士が本土に帰還した後「安達二三三」将軍は、一人残った刑務所で(扉に

鍵すらかかっていない)で、戦死した兵士に謝すと遺書を書き自害された。

(サムライを見た、責任の取り方)

本日からの上皇陛下が、皇后さま(大后)と南太平洋等の戦跡に慰霊の訪問を

された、きっと現地で戦死された兵士たちの御霊を迎えに行かれたのだと思う。

あの 激戦で2万人近い日本兵が戦死した硫黄島で、現在は海上自衛隊員しか

駐屯していないが、現地では霊感の無い隊員ですら、窓からこちらを見ている

血まみれの兵士の姿や、水を入れている冷蔵庫が揺れていて、ミネラルウォーター

のボトルの栓が開いていないのに水が無くなっている事をほぼ全自衛隊員が経験

していたが、上皇陛下が、慰霊の為、硫黄島を訪れた後、その怪奇現象が一切

無くなったと聞いた事が有る。