ヒロ君の独り言

母の墓参りの折、通っていた高校の近辺を散策した。

高校生の時代、なんせお腹が空いて、弁当は2時間目の休み時間に食べ、

昼食は食堂、甘エビの様なエビを芸術的に衣を付け、揚げた天丼と、

ナルトの上に胡椒をこんもり置いた中華そばをいただき、クラブの後

商店街で揚げたてのコロッケ(左手の指に挟んで3個)、右手には沖縄ホルモン

うちの商店街は串刺しで売っていた、肉屋のおっちゃんに「甘いのか?辛いのか?

」と言われ、辛いのと注文しつつ、右手の指の間に4本挟み食べながら帰宅した。

学食では、運が悪ければ、売り切れで食べれない事が多々有ったので、ホルモン屋

のおっちゃんに相談しお昼にホルモンをクラス一人5本×30人で150本を現金で

納入してもらい、ついでにご飯三升を発泡スチロールの箱であつあつで運んでもらい

先生にバレない様に 校舎の裏の壁越にもちろん搬入してもらった。更にコロッケや

ヒレカツも交渉して 100個以上納入してもらった。1年の時、おっちゃんは、

汚いサニーのバンで来ていたが、3年の時には、コロナの新車のバンに変っていたし、

自宅兼汚い店も、新築していた、俺たちのクラス以外にも 受注していたのかも?

2年の時、先生にバレ、教室に先生が昼に来て、「わかってるんや、4~5本よこせ」

と横取りしながら目こぼししてくれた(時代やな)、ほぼ男子校だったので、全て

大胆に毎日を過ごしていた。高校生の時 一番辛かったのは、他校の生徒とケンカを

して、停学になった時、何故か校長室で授業を受けさせられ、校長先生の奥さんが

作ってくれた お弁当(高齢の先生と同じ大きさのを、つまり異様に小さい)を昼に

一緒にいただく 地獄の様な停学期間を過ごし何よりも堪えた。

以前母の恐ろしさを書いたが、高校生の時、クラブを終え、自宅に帰った時、黒塗りの

車が 3~4台家の前に停まっていて、何事かな?と家に入ると、ヤクザの様な方々が

リビングでおかきを食べながら、お茶を飲み母と話をしていた、1課の刑事さん達で、

課長が母の同級生で、うちにお茶をしにきてたみたい、正直 おしっこちびり

そうだった、そんなことが出来たのも時代だろうな(昭和)。後年 膝を悪くし 

手術をして痛そうだったので、徳島の母方のじ~ちゃんの墓参りを兼ね、高知に旅行

し、幼馴染にお願いして、母と海層深層水のお風呂に(土佐ロイヤルホテル)入っても

らったら、真っ赤な顔をして、出て来て「お母さんな、2時間首までお風呂に浸かって

話してた 付き合い切られへん」と怒っていた、皿鉢料理を腹一杯食べ、母は元気を

回復した、そんな母も2017年に亡くなったが、いまだに解らない人だ、叔母達から

いろいろ聞いたが、ますます謎の人だ。