ヒロ君の独り言

久々の歴史物

以前書いた 白村江の戦いで唐軍の捕虜になった 倭国の首長名前だが

「筑紫君 薩夜麻」と唐の書類に書かれているらしい。

因みに、東大寺法隆寺共、九州倭国の首都の太宰府に有ったが、戦乱

(8年の抑留後帰国した、筑紫君 薩夜麻と その間に政務を取っていた

中宮天皇十市皇女)-大友皇子弘文天皇))との権力争い荒廃した為、

奈良に移築されたともいう。その筑紫君 薩夜麻が695年 百済遺民の藤原不比等

等に暗殺されたのが、「大化改新」と言われている。

話は変わるが大分県の某所に有る、「後藤又兵衛」の墓に(黒田官兵衛養子)と

彫られている?? 確かに官兵衛には、他にも養子が居る、有岡城で監禁されていた

時に、世話になった加藤重徳の子の黒田一成、一柳直末の子らが居る。

有る本に、有岡城に監禁された黒田官兵衛の離反を疑ったのは、信長で無く、その事で

罪を問われるのを恐れた秀吉自身が官兵衛の子の松寿丸を処断したのでは無い

だろうか?、秀吉の行動を悟った竹中半兵衛が自身の城(菩提山城)に匿ったが、

半兵衛共々、処断されたと思う、

何故ならその後の竹中家に対する態度(石高 7000石ほど)の冷たさ、さらに、

お墓も三木城の近くの森の中にポツンとある、あれだけ太閤記三顧の礼

持って迎えたのに、その家を盛り立てるでも無く、大名にすら引き上げず冷遇されて

いた、官兵衛が生還後引き合わされたのは、まったくの別人(後の長政)だった、

その後の官兵衛の態度が、少し冷たくなっている。

だから、長政と後藤又兵衛の仲が(同じ養子なのに偉そうにするな)上手く

いかなかったのでは、無いだろうか? 因みに大坂夏の陣で又兵衛の遺体、及び首は

見つかっていない、関ケ原の折、黒田長政の陣に居た 官兵衛の弟の直之が、宇喜多軍

しんがりに居た、明石全登(黒田家の親戚)を自身の陣に匿い 領地の大分の佐伯

に連れて帰ったとの話が有るぐらいだから、又兵衛も同じく 直之の親族の地にて

匿ってもらっていてもおかしくないと考える。更に三木城の兵糧責めや高松城

水攻めも官兵衛の献策と言われているが、黒田家の確か3代目が言い出した物だと

何かの資料で読んだと思う。信長公記や、太閤記は、秀吉自身が自分に都合の良い様に

書かした物なので、信長が冷酷な人間だとか、盛大に人を殺したとか、???である。

秀吉の浮気に怒ったおねを慰める暖かい手紙、比叡山延暦寺の焼き討ち(発掘で

焼かれた跡が無い、焼かれたのは、細川春元の全山焼き討ちの時のみ)等実際に

有ったかどうかわからない、中国大返し太閤記に記されている日数では、絶対に

無理だと実験で証明されている。はるか事前に本能寺の変を知らなければ、対応

出来ていない。次回は、寄り道が無ければ、本能寺の変 秀吉黒幕説を記したい。