ヒロ君の独り言

前回書いた ヤマト国(邪馬台国)と出雲族 倭国の文章の修正

朝鮮半島前漢の領土(ほぼ北朝鮮)は、楽浪郡で無く「帯方郡

当時の一里は750mでなく、75m、当時、釜山から対馬まで1000里と

魏志倭人伝に記されている、直線距離で75kmは、ほぼ合っている。

徳島県の上山町は、神山町であった。

この魏志倭人伝に記されている距離は、直線で記され、帯方郡の都市(帯方郡治)

から南西方向12000里で半円を記すと 神山町の上をなぞる 更に項羽の故郷の

会稽から真東に邪馬台国が有ると記され その位置が上記の12000里と交わるのが

徳島県神山町である。

邪馬台国(ヤマト)は、春秋戦国時代から(蓬莱)として知られていて、徐福が

始皇帝の命で不老不死の薬を求めて 和歌山県の新宮近辺に上陸し、住み着いた例

も有るが「魏志倭人伝」「後漢 東夷伝」「梁書 東夷伝」「隋書 東夷伝」にも、

記されている。

最終的にヤマト国は、奈良県の同盟国に遷都し「ヤマト:大和」とした、和とは

連合と言う意味を表し、ヤマト大連合国を大和と漢字を後世の人間が当てたとも

聞いた事が有る。ヤマト国以前の巻向王朝のスサノオノミコトの五男が大神神社

祀られている大歳で、オオナムチ王国の遺臣や、島根に住み着いていた、出雲族

代表がオオナムチ(大国主命)の息子のアジスキタカヒコネ(武角見)で加茂族の

祖として、大和葛城山の麓で暮らしていたが、大歳の娘の御歳(ミトシ姫)良い仲に

なり 子を授かった(イサ速男:大阪市城東区鴫野に神社がある)が、後継ぎ

(大歳の)問題で 大歳の息子達に武角見(タケノツノミ)が暗殺され、鴨族は

タケノツノミを葛城山に埋葬しその一族を祀った(大国主、タギリ姫、事代主、

下照姫、アメノ若彦(下照姫の旦那))、それを現地では「高鴨神社」と言う、

タケノツノミの死後、ミトシ姫は、葛城山の麓に居を建て、タケノツノミの霊を慰め

その地で無くなった、その地を下鴨神社と言い、後に鴨族が、山城に移住する時

共に分祀し現在の京都市内の、高加茂、下賀茂の両神社となった、

ヤマト国は、奈良に遷都後、在来の豪族達と大連合国家(大歳の子孫の物部氏

葛城氏、平群氏、和邇氏等)、そして勢力を回復させ、唐、新羅連合軍との戦争時

白村江の戦い)に倭国と共に朝鮮半島に攻込み、百済加羅任那の遺民達を

連れて、日本に帰り、各地に兵を差し向け、周囲を固め、倭国内の政権争いに

関与し、日本の中心部を治めた(当時、関東は別の国、九州の熊襲族の反乱軍を除く)

そして、ますます勢力を拡大させヤマト朝廷に至ったと思う。

また、紀元前から中国に朝貢していたので、漢字は、使えるが 古代文字も存在し

日本中やり取りが有ったが、藤原氏百済遺民の子孫)によって 使用を停められ

漢字だけ(後にひらがな、カタカナを追加)となった、蘇我氏(ヤマト国国王)の

入鹿が暗殺された時、藤原氏により古代文字を排除させられたのでは、無いだろうか、

 

ヒロ君の独り言

箸休め

徳島出身の幼馴染に聞いた。

徳島には、阿波文字の石板が発掘されている。

放射線探査で、5000年前の物と判明したらしい。

漢字とは全く違う文字で、解読も進んでるとの事。

また、山奥の神社では、神官が阿波文字の言葉でノリトウをあげてるとの事、

徳島県は不思議な県で、山の尾根には馬が2頭並んで歩ける道が有り、山頂に知か

づく程、高貴な人の家があり、麓に近づく程、位が低い人が住んでいる。

剣山(ソロモン王の秘宝が埋まってると言う伝説が有る)の山頂付近で

少しでも発掘を始めると、警察官が来るらしい、つまり常に監視されているらしい

母から聞いた話では、剣山の麓では、樵が歩いていると、山道に結構太い倒木

があり、仕方がないので乗り越えようと上に登ったら、その倒木が動くので、

よく見ると、大蛇だったという話が戦後も有ったらしい、ウサギがシェパード程

のサイズがあり、カエルも30センチ以上にがザラに居るので、エサには困らない

だろうと、母方のじ~ちゃんから聞いた事がある。

脇町(うだつが上がる、上がらないで有名)にある脇城の城主は、武田信玄

弟である。那賀川流域や、鳴門近辺には卑弥呼(オオヒルメムチ)の時代よりも

古い古墳も多々あり、なかなか文化レベルが高い県である。

以前にお遍路さんに行ったとき山の中にある鶴林寺から東を見ると、大阪の

灯が見えた、大変驚いた、メッサ 新田神社が有りった、だがうどんは、香川県より

おいしかった。

日本の歴史では、現在の天皇家の祖(アマテラス)と出雲族の祖の(スサノウ)

の2系統が神話として出ている、何故か天皇家の祖のアマテラスの子孫は、天の岩船

に乗って宮崎の高千穂に来て、周囲を収めていた、何故くそ田舎の宮崎??

出雲族とは、奈良県三輪山の西側(長谷寺側)の地名が出雲という。

また、その近辺は、相撲の発祥地でこの出雲地区の代表が(野見宿禰)、対戦

相手は、當麻寺近辺に住む(当麻蹴速)が垂仁天皇の命で紀元前23年に対戦した。

この野見宿禰が勝利し、古墳の人柱を人間の代わりに埴輪にした人物で、奈良市

蓬莱地区を領地にいただき(土師:ハセ)と言う名をもらった、各地にあるこの

地名は、皆同じ壺や埴輪を作成する職業軍団である、また、この蓬莱地区に住んだ

野見宿禰の子孫が「菅原道真」と言われている。

この出雲族は別名鴨族とも言われ、大国主命(オオナムチ)の子のアジスキタカヒコネ

を祖とし、奈良県葛城山の麓で暮らしていた、オオナムチとスサノウとの関連は

スサノウの娘のスセリ姫を嫁として島根県の日御碕付近を領土としてもらい

タケミナカタ諏訪神社に祭られている:何故かは後日のお楽しみ)をもうけている

何故島根県?と言われるが 当時のスサノウの軍が各地に軍(息子達)を派遣して

いて、山陰には、五男の「大歳命」が派遣された。日本地図で奈良県から神戸、姫路に

かけて「大歳神社」が、存在していて、姫路近辺から山陰方面に大歳神社が続いて

いる。つまり山陰方面征討軍だと思う、オオナムチは、大国様とも言われ因幡の白兎

等の神話に出てくる、島根県地域の王だったのではないだろうか?、その関係で、政略

結婚として、スセリ姫が嫁いだのではないだろうか、山陰方面の王であったオオナ

ムチは、山口県地域にも勢力を広げ、北九州の宗像一族と平和条約を結び、その結果

宗像3女神の一人タギリ姫を嫁として(他は、タギツ姫、市来姫)、アジスキタカ

ヒコネ命、下照姫、事代主命一言主)をもうけた。

そのころ九州では、宮崎を中心とした(球磨川流域に(中国の)春秋戦国時代

滅ぼされた「楚」国の遺臣や王族が地域の部族と融合し「熊襲」:狗奴国を成立

させ、北九州地域の奴国を含む連合国(山門:ヤマト)と戦い、最終的にヤマトは、

大分県から 四国に逃れ、徳島県でヤマト国を成立させていた(狗奴国との戦いは、

大分県愛媛県沿岸で続いていた)、因みに狗奴国の王の名は、卑弥呼の時代

「クコチヒコ」:菊池彦、その狗奴国は、別名:倭国と言っていた。その

狗奴国が九州を統一し朝鮮半島に進出し任那加羅)を宿営地とし、朝鮮半島南部を

支配していた、前漢の「東夷伝」に記載され、楽浪郡の東側は倭国であると記されて

いた、その倭国軍が中国地方に侵攻してきて山陰で戦闘が行われ、タケミナカタは、

倭国軍のタケミカズキ軍に敗れ、日本海側を戦闘しながら新潟に逃げ 最終的に

諏訪方面に定住したと思う。スセリ姫は、三刀屋という所に幽閉され、オオナムチ、

事代主は戦死、タギリ姫は、宗像の娘の為、下照姫と共に、監視されていたが、

長男のアジスキタカヒコネは、大歳と共に人質として、大和(奈良県巻向)に行って

いた為助かり、葛城山の麓で島根出雲族及び、オオナムチ軍の遺臣達と過ごし、

地域の人間と交じり、鴨族を成立させたと思う。中国からの亡命国名は「呉」「越」「楚」で秦に滅ぼされる前に日本に亡命し、「呉」は、広島県「クレ:呉」

「越」は、日本海側「越前、越中、越後」に移住し暮らしていたと思う。

当時の中国の首都(長安)から 魏志倭人伝に期されている各国の 距離は一里を

750m(当時の中国の単位)で換算すると、驚くほどぴったりと合う。

因みに上記の長安からの距離を日本に換算すると 徳島県にあたる。

徳島県の上山町には伝卑弥呼の墓もある。大作になるので、この後は、次項とする。

 

 

ヒロ君の独り言

ツタンカーメンの墓について。

通常 王家の谷の各王の墓には、約束がある。

男の墓(当然王を含む)は、入り口を入ると廊下は真っ直ぐ進むか

左に折れていく、女の王族の墓は、入り口を入り廊下を進むと右に折れていく、

それが法則だった様で、ほぼ全ての墓がその様な構造(規模の大小はある)に

なっているが、唯一異なっているのが、ツタンカーメンの墓で、異様に

短い廊下を進むと右に折れて行っている。

ツタンカーメンは、当然男の王である、色々な説の中に ツタンカーメンの死が

急だったので、まだ墓が出来てなくて、他の王族の女性用の墓に埋葬された、

あまりにも急だったので、ミイラ作りも、薬品を浸した包帯を巻いて 通常なら

何か月か乾燥させ、それから 棺(黄金のマスク)に入れて埋葬するのだが、

急だったので、未乾燥のまま棺に入れ埋葬したが、後に化学反応を起こし、発火

した為、ツタンカーメンのミイラが発見された時は、真っ黒に焦げ、棺内の酸素が

無くなったため、辛うじて形が残っていたと報告書を読んだ。

また 通常ミイラは、心臓は体内に残すそうだが、ツタンカーメンの遺体の左側は、

骨が砕け 現在の交通事故(車にはねられた様)にあった遺体の様で、心臓も破裂し

していたので、体外に出されていたいたとも書かれてあった、暗殺や虚弱体質とか

色々と言われていたが、当時ヒッタイト帝国と戦争をしていたので、戦車(馬車)に

乗り戦闘していた時 振り落とされ、起き上がった時、他の戦車にはねられ、戦死

した為、ミイラ作りや、墓が急造されたのでは無いだろうか?

棺である黄金のマスクも顔面部が取り換えられた跡がある、ツタンカーメンのマスクの

耳には、ピアス用の穴が開いている、当時の男の王族は、ピアスをしない、

つまり、女性用のマスク(予備品か?)を改造し、顔面部を取替、使用したのでは

無いだろうか、それにしても 女性用の墓にそれも入り口の本近くに墓室を作られ

埋葬されたのは、あまりにも王としてお粗末すぎる、ツタンカーメンの次の王は、

神官だった”アイ”でツタンカーメンの父や祖父から仕えていた人物で、更に娘は

ツタンカーメンの義理の母親である、「ネフェルティティ」である。

ツタンカーメンの父が虚弱体質であり、政治もろくに取れなかったので、嫁である

ネフェルティティが、付け髭を付け王として、政治を行い、王の死後の葬祭も済ませ

安定した政権を保っていたが、通常王妃は王と共に埋葬されるが、ツタンカーメンの父

の墓の王妃の墓室は、作りかけのママ、放置されていた。

推測だが 王として君臨してきたのに、何の実績もないツタンカーメンの父の墓に

埋葬されることが堪らず、自分用の墓を作り、作られていた棺(黄金のマスク)も

もっと立派な物とし、死後、父親であるアイに葬られたのでは無いだろうか?

当時ですら墓泥棒が横行して、盗掘されて犯人も捕まれば即死刑だったらしい

その状況から、アイはトラップを考え付いたのでは無いだろうか?

娘用の予備の棺をツタンカーメン様に作り変え、墓もネフェルティティの墓の廊下

に急造し、墓はここまでと言うふうにして、墓泥棒対策をし、娘の永遠の眠りを

邪魔されない様対策を行ったのでは無いだろうか?近年ツタンカーメンの棺の有る

部屋の壁の調査で別の部屋か廊下の入り口らしきものが計測器で確認されている。

もし、未盗掘のネフェルティティの墓が発見されたら、凄いことになるだろう。

吉村教授らがうずうずしているであろうが、エジプトのザヒ教授(何故か権限を

持っている)の許可が出ない、何故だろう?

因みにドイツの科学者が、ツタンカーメンのミイラの検死をしたが、DNAの発表は

無かった、もしかしたら、ユダヤ人だったかも?

 

 

幕末の土佐藩坂本龍馬の家は郷士なので、実質 藩からの給料は

ほぼ無いに等しいが 実禄は、600石近く有ったと本で読んだことが有る。

幕府旗本でも50石、100石取りは、結構大きい方で、町方同心等30俵二人扶持

である。1石ないのである。 また 土佐藩の家老並の後藤象二郎も600石

つまり竜馬の家は、大変裕福であった、何故なら 坂本家は才谷家の分家で

才谷家は、両替商として、土佐藩の武士達に結構な金を貸している。

当時土佐藩には、三家の豪商がいて、才谷家(近江坂本の明智光秀の娘婿の

明智秀満の子が乳母に助けられ、土佐に逃げて来た。)は、明智家の

子孫と言われ、林業から始め両替商となり、燐藩の阿波にまで、その名が知れている

もう一家は 浅井家(もちろん浅井長政の子孫)、もう一家(名前ど忘れ、ただし

近江商人の家系)。つまり、全て近江商人の系列。竜馬が江戸で勝海舟に会えた?

(脱藩した浪人が、今で言う防衛大臣会える?)普通なら門前払いなのに

快く会えたのは何故? きっと近江商人のルートがあり、近江商人グループから

何かの話の関係で竜馬が使いに出ていたのでは無いだろうか?、現に神戸海軍操練所

(本隣の兵庫の港に小栗上野介が開いた幕府海軍操練所が既に有った)の設立の

資金は、どこから出ていたのか?竜馬の海援隊の隊士100名近くの 給料飲食費は、

まだ軌道に乗っていない時期なのに誰が出していたのか?薩摩や長州では無い。

思うに、西郷隆盛らは、グラバーから、武器弾薬その他軍資金を出してもらい、

討幕に出たと思う、しかし坂本龍馬は、近江商人ルートで 北海道の昆布を越前経由で

琉球に密貿易したり、対馬のスルメを同じく琉球経由で清国に売ってそれなりの

利益を上げていたのでは無いだろうか?同じ討幕でも、無血討幕を目指した竜馬と

グラバーらイギリスが黒幕の武闘討幕では(明治政府に圧力をかけるイギリス)

根本的に方針が違って来て、竜馬ら無血討幕(現に大政奉還された)側が優勢に

なったので、西郷隆盛らは、邪魔者の竜馬を暗殺したのでは無いか?死体を検視

したら真実がわかるだろうが、させてもらえないだろうな、その西郷もグラバーら

イギリスを排除する大久保らに排除され、西南戦争へと突き進んだのではない

だろうか? 海援隊の竜馬の後の隊長某が竜馬暗殺の調査をしていて「薩摩の動き

いとおかし」との手紙を最後に行方不明になっている。竜馬の隠れ場所を知っていたのは、長州の三好(竜馬の護衛役)、西郷、後藤象二郎ら限られた者しかいない。

それも 竜馬が心を許し刀すら、傍に置かず対応していた人物、私は中岡慎太郎

犯人だと思う、竜馬に反撃され片腕を切り落とされているが、二日間、谷干城

看病していて死んでいるが、もし他の者に切られたのなら、名を教えていただろう。

西南戦争時、西郷軍を熊本城で必死に食い止めた谷干城の心情は、・・・

 

話は逸れるが、死体検視で 確か大阪の茨木市の阿武山にある、京都大学地震

研究所内から飛鳥時代の古墳が発掘され、墓室から玉の枕に位の高い者が身に着ける

冠を被ったミイラが発見された、日本書紀の通りなら、「藤原鎌足」だと思うが

DNA鑑定はしたのだろうか?(多分百済遺民なので朝鮮人) なんせ 藤原氏

祖なので、発表されないだろうな。

 

 

 

ヒロ君の独り言

本能寺の件

太閤記信長公記に書かれている本能寺の変の矛盾点、

一次資料で、本能寺に攻め入った明智家の兵士たちは、徳川家康を暗殺する

為、本能寺に攻め入ったのに信長様が居たなんて聞いてない、と親族に手紙を出して

いる? 明智光秀も信長を諫める為、幽閉するつもりで本能寺に行ったのに、先手の

部将(確か天野某と言った)らが 本能寺に攻め入っていて、一番驚いたのは、当の

光秀本人だったと何かの本で読んだ、しかもその部将(天野)は、後に秀吉の家来に

なっている。また光秀が山崎に秀吉を迎えに行ってたとの話も有る、つまり 秀吉、

光秀、家康は皆話が出来ていて、信長を引きずり降ろして自分たちが天下を分けて

治める?との話が有るが、頼朝や尊氏が幕府を開いたのと別の形で、天皇は、象徴とし

公家を廃止し、織田総合株式会社の様な社会を作ろうとしたのが、公家たちの反発を

招き、皇室から信長排除の指令が上記三人に出たのでは無いだろうか?

例えば 秀吉は山の民出身(彼らの自慢は祖は皇族)で右手の親指が2本有ったと

前田利家が記している、つまり血が濃くなり過ぎていた、また、皇室に非常に熱い信仰心を持ち、沢山の金を寄進し将軍で無く公家になる事を望んだ。

光秀も美濃の明智家の出身か否かは、わからないが何故か

根来衆と関係があり、その鉄砲の腕を信長が見染めて、根来衆を重要視した、その

間を取り持ったのは光秀で、山崎の合戦後、光秀の嫡男は、根来の勢力下の寺の

住職として一生を過ごしている。更に信長の味方であった根来衆根来衆と親しかった

雑賀衆の中郷、宮郷、南郷は秀吉に敵対し、攻め滅ぼされている(雑賀荘と十ケ郷は

本願寺の味方をして信長に攻められ、降伏しているが、秀吉には敵対していない)。

家康も何人も影武者が居て(何故か影武者の名前、世良田二郎三郎、小笠原秀政、服部

半蔵、土井利勝)最初の松平元康は、桶狭間で戦死し、影武者が徳川家康として三河

の棟梁となった、なので、元康の妻の築山殿や長男の信康を簡単に切った、次の家康の

子の結城秀康(実は双子)も冷遇された(影武者家康は三方ヶ原の合戦で武田に

討たれた)、三番めの家康の子は、秀忠、忠吉、忠輝(この家康影武者は、秀康に

彦根城で殺され秀康も彦根城で徳川家臣団に殺された、以降の越前家への冷遇が証拠)

四番目の影武者家康の子は、義直、頼宜、頼房 この四番目の家康は大坂の陣で死んで

堺の南宗寺に墓がある。更に家光は、光秀の娘の春日の局と四番目の家康の子(家光の

家:家康 光:光秀)明智家遺臣が補助をしたと思う(紀州家、尾張家等)

家康影武者は、他に小笠原秀政大阪夏の陣で、毛利勝永に討たれた)、服部半蔵

(二代目)は、(真田幸村大阪夏の陣で討たれた)大阪四天王寺に墓がある。

最後の影武者は、土井利勝で、さっさと入れ替わり、幕府政治に邁進した。

信長暗殺は、これら3人が公家達からの指示で実施したのでは無いだろうか?

京都東山に1612年 信長が死んだと記された墓石が濃姫の墓と並んで立っていると

何かの資料で読んだことが有る。

 

 

寄り道です。

仕事で広島の呉に居た時、スナックで某自衛隊の偉いさんと 米軍岩国の方と

一緒になり、何故か月一会っていろんな話をした。

話の折々に潜水艦に関係する人と理解できたので、そんな話を振ってみた。

戦争末期 フィリピンで 日本軍の甲標的真珠湾にも参加)型潜航艇改

を(人員を2名から3~4名に増やし、スペースを広くし、バッテリー充電用

エンジン搭載)8隻配置し、レイテ島とミンダナオ島間の海峡にて、各艦2本の

魚雷を上手く使用し米軍艦(輸送船含む)を30隻近く撃沈し、味方の損害は、

実質無しで引き上げて来た。

そんな話も有ったと言うと、現場現場に適した配置をすれば成果がでるんですねと

現在の社会でも通用する、ただしそれを理解できる上司が居てこそだが、

アメリカ軍は、作戦を失敗させると、たとえ将軍であっても、引責で交代させられる

と米軍の将校が言っていたが、昔の日本軍では、そんな話は聞いた事が無い。

ノモンハンの戦闘を軍令部に相談無しに現地指揮官に命令し、失敗したとたん

トンズラし、ニューギニア戦線でも勝手に指揮をして失敗したらさっさと本土に逃げ

終戦時は、戦犯を逃れるため隠れ、もう戦犯の恐れが無くなったとたん 石川県から

国会議員の選挙に出て当選した辻政信や、インパール作戦を計画し、補給や作戦内容

に疑問を持って反対した参謀らを左遷しイエスマンだけを周囲に配置し、作戦が失敗

したら、現地指揮官の責任だと喚き、戦後ものうのうと生きた牟田口廉也

ミッドウエーの指揮官 南雲忠一や草鹿参謀や福留将軍等、よくそんな人々で

戦争を始めたなと思うと、戦死なされた兵士をひたすら哀れに思う。

現在の朝日新聞も上層部は、誤報の責任を取らず謝罪もせず、管元首相の福島原発

での無責任な対応、一切反省せず(門田氏著書の地獄を見た人 吉田所長)、

のうのうと議員でいる根性、厚顔無恥という言葉を、それぞれの方に送りたい。