ヒロ君の独り言

歴史の真実は、後世の人をいかに興味を持たすか?楽しませるか?先祖の功績を

高める為、等 おもしろいと言う事で改竄されてきたと思う。

例えば、川中島の合戦  啄木鳥戦法?? アレ等は本当に後付けの典型だ

越後軍は兵糧が欠乏してきたので、善行寺に残ってる補給部隊と合流する為

川中島を進んでいた折、朝霧の中 進行方向右側(海津城方向)に武田軍が

布陣していた為、このままでは、側面から攻撃されるので、部隊の配置や陣構え

等関係なく 全軍で武田軍に突っ込んだと思う、だから異様に戦死者が多い。

関ケ原も 家康が伊達政宗に送った手紙には、「自分は大垣城を攻めていた、その時

南宮山の毛利軍に浅野軍、池田軍が攻撃しているのが見れた」と、つまり

家康は、関ケ原の合戦当時、関ケ原に居なかったこと告白している これが一次資料

で、石田三成も 当時、自分の城の佐和山城に在城していたし、今津から関ケ原に出る

山中村あたりを西軍が進行している時、出口の松尾山に布陣している小早川軍と

大谷刑部軍が戦いをしていた、その時、大谷軍に福島正則山内一豊が攻めかかり

半刻(一時間程)で大谷軍を壊滅させ今津から山中村にいる西軍に東軍が追撃戦を

行ったのだと思う。現在残っている西軍の鶴翼の陣や、東軍の陣形は、2次資料、3次

資料(ご先祖様は関ケ原この様に活躍したはず)など後世の後付けで、江戸時代末期

に成立したのが事実、だから 関ケ原石田三成の陣跡からは、何の遺構も出て来ない

石田三成と家康の間は、歴史本に書かれているほど険悪でなく、豊臣七将の(清正、

正則、忠興、長政等)の三成襲撃事件も無かったと言われているし、普通 頼み事

する時 頼み事をお願いする方を呼びつけるか? つまり三成が 大谷を佐和山城

に呼び付けた件、家康の旗本には三成の三男が居た、それに三成の息子達は、関ケ原

後、責任を取らされて死んででいないし、三成の娘の子つまり孫が 徳川将軍の側室に

入り将軍を生んでいる(詳しくは 津軽氏を調べて下さい)、当然 輿入り時に

幕府も身元調査しているはずなのに 輿入れ出来たのは何故?

それに気になるのは、大谷刑部の母(東殿)は、高台院(おね様)の腰元なのに

関ケ原後、財産没収になっている(おねの保護が無かった)。更に 東殿は、秀吉の

側室でもあった、思うに、高台院に人質に取られていたのでは無いのだろうか? 

また大谷刑部自身、歴史書に書かれている様な罹病で無く(目が見えにくくなって

いる)のは確か、別の資料で おねは秀吉の側室の子供達を次々毒殺していた

(嫉妬)との説もある、長浜時代の南殿の息子、娘(長浜にお墓が有る)、秀勝

(信長の子)、淀殿の最初の子等、つまり大谷刑部も秀吉の子で、おねにヒ素

盛られ死にかけて身体に障害があったが、秀吉の子として 家康に戦いを挑んだの

では無いだろうか? 福島正則小早川秀秋がおねの命で、優先的に大谷刑部を

攻めた理由がわかる。信じるか信じないかは、あなたしだい。

因みに 関ケ原後の小早川秀秋の早死に、浅野幸長の死、井伊直正の死等は、

大谷刑部の娘婿の真田幸村(信繁)率いる真田忍軍が関連しているのでは無いだろ

うか、さすがに家康は守り(伊賀、甲賀衆)が堅く、大阪の陣に続く。